1月1日 新年合同礼拝

 

今日の聖句

詩編 1:1~6

1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

 

日本キリスト教団 東北教区 いわき・郡山地区 新年合同礼拝

前奏

招詞 詩編96:1~3

讃美歌 讃美歌21-17

日本基督教団信仰告白

主の祈り

聖書朗読 詩編 1:1~6(旧約聖書P.835)

祈祷

説教 「さいわいな人」小峰 擁 牧師

メッセージ(牧師説教要旨)

聖書の中には「さいわい」ということについて語られているところがいくつもあります。いちばん有名なのはイエスさまが山上の説教で「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人のものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。…」(マタイ5:3、4)というところであるかもしれません。それは詩編1編の音色ともハーモニーのように響き合っています。神さまから来る「さいわい」ということは聖書全体の調べでもあります。

「さいわい」は詩編1編の初めであり、詩編150篇全体の初めであるわけです。この語は「さいわいである…(こういう人は)」「さいわいなのは…(こういう人)」、等と訳せます。詩編はこのように「さいわい」を告げる神さまの祝福のみ言葉から始まっています。このことはよく考えてみると神さまのみ旨のありかをわたしたちに指し示しているのだと思います。神さまはわたしたちに、わざわいの道ではなく、さいわいの道を備えてくださって、さいわいへと招いてくださっているのではないでしょうか。

このことを伝えるために、詩編1篇には二つの道が対比、対立するような形で示されます。(ただ)しき者の道と()しき者の道の二つの道です。先ず、義しき者の道が否定形の三つの動作であらわされます。「歩まず」、「とどまらず(直訳は「立たず」)」、「座らず」…と動的に表現されます(詩編1:1)。そして今度は肯定形で「愛し(あるいは「慕う」、直訳は「彼の喜びとする」)」、そして「口ずさむ」(「瞑想する、「黙想する」とも訳されます)…となります(詩編1:2)。こちらは心の中の問題、深く内面的な表現です。(ヨシュア1:8参照)

続いて「その人は流れのほとりに植えられた木」のように「ときが巡り来れば実を結ぶ」と表現されてゆきます(詩編1:3)。(詩編92:13‐15、参照)

ここには教えを絶えず口ずさむ人、トーラー、律法を昼の光ばかりではなく、夕べにともしびをともしてひたすらみことばを読む人の姿があります。たぶん低い声でぼそぼそと読む人の声がしたことでしょう。つまり御言葉、聖書を愛し、慕い、昼も夜も喜んで聖書を読み続ける人の姿がここにあります(詩編1:2)。「口ずさむ」は聖書の人々にとっては声になるかならないような小さな声で読むということです。聖書の人々にとって聖書を読むとは黙読ではなく音読を意味するのです。

さらに、その人は水路、自然の水辺、小川のほとりというよりも、もっと人工的な流れの速い運河のような川の流れの岸辺に護岸用に移し植えられた木のようだというのです。その木は水をよく吸って緑豊かな葉っぱをたくさん茂らせて成長するというのです。ですから砂漠のような荒野の中であっても、みずみずしく青々と繁って「葉もしおれることがない」のです。そのように「その人のすることはすべて、繁栄をもたら」します(詩編1:3)。このようにとてもはっきりと言いきっています。(エレミヤ17:7,8参照)

次に悪しき者の道がこれとは対立、対比するような形で述べられます。「神に逆らう者はそうではない」、「彼は風に吹き飛ばされるもみ殻」のようだというのです(詩編1:4)。麦を脱穀する風景がここにあります。脱穀場の岩場、麦の打ち場で脱穀されて麦の粒ともみ殻がふるい分けられて、もみ殻が風に吹き飛ばされるという風景です。そのように悪しき人の道は軽く、むなしい運命となる、だから「神に逆らう者は裁きに堪えない」というのです(詩編1:5)。悪しき人は義しき人のようではなく、神さまのみ前にこのように耐えきれない、神さまのさばきの座に耐えきれないのだというのです(詩編1:5)。これもたいへんはっきりとしています。運命的でさえあります。

そして最後に6節ではいままでのまとめのような形でもう一度義しい者の道と悪しき者の道の二つの道が対比、対立させられて、「神に従う人の道を主は知ってくださる」。しかし、「神に逆らう者の道は滅びに至る」(詩編1:6)という結論に到達します。何かとてもはっきりとした結論に至るのです。

ここで思わされるのは、律法を低い声で読む人の姿、つまり御言葉、聖書を昼も夜も喜んで読み続ける人の姿のことです。わたしたちの教会、そしてキリスト者の信仰生活がほんとうに毎日聖書を愛読し、みことばに普段の生活が密着しているかどうかということです。わたしたちはこのことをとても反省させられるのではないでしょうか。

そして、ここでどうしても考えされられるのは、先程の詩編の中の義しき者と悪しき者との選択基準があまりにもはっきりとし過ぎているということです。二つの道とも運命的な結論に導かれます。わたしたちは果たしてどこまでそれに耐えることができるのでしょうか。もしかすると、わたしたちはここの義しき人の方ではなく、悪しき人の方に入ってしまうのではないかと心配になります。わたしたちそれぞれに信仰の良心において考えてみるときとても心配になります。

しかし、宗教改革者マルティン・ルターが言うようにわたしたちキリスト者は「ゆるされた罪人」であるということをいま一度想い起こしたいと思います。わたしたちは、最後はキリストの十字架によるゆるしにすがるしかありません。キリストの光の中に照らされないと神さまのさばきの座にはわたしたちはとても耐えきれそうにありません。しかし、キリストの十字架と復活の光に照らされるとき、そのときはじめてわたしたちも詩編1編のさいわいな人のように主の律法を喜ぶことができる、御言葉を慕うようになります。御言葉を喜ぶことができます。そして、キリストの福音としてこの詩編1編を読むことができるのではないでしょうか。

また、キリストを信じる者、キリスト者であるわたしたちの人生には深い悲しみや苦しみもあるのだと思うのです。しかし、そうではあるけれども、それと共に、同時にキリストにあって深い慰め、静かな喜び、確かな希望があるのだと思います。これは自分のものであって自分のものではありません。それは自己に根拠を持つのではなく、イエスさまに、キリストに根拠を持っているからだと思います。ですから、キリスト者の人生の道は神さまに、キリストにすべてをお委ねするしかありません。神さまのみ前に、キリストのみ前に悔いくずおれてこのお方にすべてをおゆだねするのです。イエスさまはわたしたちの深い傷やそのうずきや痛みをよくご存じです。神さまの御子、独り子であられるイエスさまは十字架の道で痛み、苦しみをすべて味わい尽くされます。イエスさまは十字架の道を歩まれたのです。イエスさまは人の罪すべてを十字架の上でわたしたちに代わって負ってくださいました。あがなってくださいました。イエスさまは傷ついたわたしたちを癒してくださいます。しかも、イエスさまはそのみもとから来るまことのさいわいを、祝福をわたしたちに告げ知らしてくださいます。イエスさまは「幸いなのは…(こういう人)」、「さいわいなるかな…」とわたしたちに祝福の御言葉を告げてくださいます。わたしたちは、この世の小さな悲しみや苦しみを味わいつつ、十字架と復活のイエスさまの愛といのちの御言葉、祝福の御言葉を感謝してお聴きしたいと思います。

わたしたちは新年を迎えましたが、この年もイエスさまの愛といつくしみに感謝しつつ、御名をほめたたえ、主を喜ぶ一年の歩みでありたいと思います。

 

  2015年1月1日 日本キリスト教団 東北教区 いわき・郡山地区 新年合同礼拝 説教

祈祷

讃美歌 讃美歌21-404

献金

献金感謝

頌栄 讃美歌21-27

祝祷

後奏

報告

 

次週礼拝予告

1月4日 降誕節第2主日礼拝

説教 「五つのパンと二匹の魚」 小峰 擁 牧師

聖書朗読 ルカによる福音書 9:7~17(新約聖書P.103~104)

ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、

「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。

しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。

使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。

群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。

日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」

しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」

というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。

弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。

すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。

すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

讃美歌 讃美歌21-268、21-269、21-198、21-81、です。第1週の主日礼拝ですので、聖餐式があります。

 

集会予告

祈祷会・聖書研究 休会

夕礼拝・聖書研究 休会

 

礼拝・集会はどなたでもご参加いただけます。クリスチャンでない方も、教会が初めての方も、どうぞ、おいでください。教会にはあなたの席が用意されています。聖書や讃美歌集は教会に用意がありますので、どうぞご利用ください。

67views

関連記事

礼拝・定例集会案内

主日礼拝式
・毎週日曜日 10時30分〜 

夕礼拝
・月の第1週のみ日曜日の19:30〜
・第2週以降は毎週木曜日 19時30分〜

聖書研究・祈祷会
・毎週木曜日 10時30分〜

毎月第1週 聖餐式
・クリスマス礼拝
・イースター礼拝
・ペンテコステ礼拝
・毎月第1週の礼拝
・毎月第1週の夕礼拝時

毎月第2週
・誕生会
・壮年会
・婦人会
・白百合会
・ヨナの会(青年会)

毎月第4週
・石川伝道所礼拝

聖書について

郡山教会並びに、このホームページで使用する聖書は、一般財団法人日本聖書協会(JBS)新共同訳を用いています。プロテスタント、カトリック両派の教理上の違いや見解の相違を越えて、キリストを信じる者としての根本的な一致の認識に基づいて両教会の共同の作業として翻訳された新共同訳は、カトリック教会でも使用されています。

聖書 新共同訳
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

return top