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日本キリスト教団(日本基督教団)郡山教会公式サイト http://www.uccj-kc.jp 福島県郡山市にある、日本キリスト教団(日本基督教団)に属するプロテスタントの教会。主日礼拝は、毎週日曜日10時30分からです。どなたでもおいでください。教会にはあなたの席が用意されています。|United Church of Christ in Japan Koriyama Church Official Site. Sun, 05 Apr 2020 00:55:41 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=4.8.12 http://www.uccj-kc.jp/wp/wp-content/uploads/2014/03/cropped--32x32.jpg 日本キリスト教団(日本基督教団)郡山教会公式サイト http://www.uccj-kc.jp 32 32 2020年3月29日主日礼拝  http://www.uccj-kc.jp/2020/04/05/095541/ http://www.uccj-kc.jp/2020/04/05/095541/#respond Sun, 05 Apr 2020 00:55:41 +0000 http://www.uccj-kc.jp/?p=2675  受難節第5主日礼拝順序

○ 前奏

○ 招詞

○ 讃美歌 21-214(わが魂のひかり)

○ 日本基督教団信仰告白

○ 主の祈り

○ 聖書朗読 コリントの信徒への手紙一 11:23~11:34    新約聖書P314-315

わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、

 

感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。

だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。

主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。

そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。

わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。

裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。

わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。

空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。

○ 祈祷

○ 讃美歌  21-78(わが主よ、ここに集い)

○ 説教

メッセージ(牧師説教要旨)

2020年3月29日郡山教会主日礼拝説教

『主の晩餐』小峰 擁 牧師   コリントの信徒への手紙11:23~11:34

きょうの讃美歌21の78番は、「わが主よ、ここに集い……」と歌いだされます。

1節、2節、3節、そして4節と歌ってゆきますと、讃美歌が伝えようとしている

その心がわたしたちにもしだいに伝わってくるように思われます。

特に4節に「わが罪、わが思いを 潔(きよ)めし 主(しゅ)の血しおよ。……」と歌われています。このことはじつは自分のことだと知って、ほかならない自分の罪を悔いる心をもって歌いますとき、さらに聖餐に込められた深い意味がわたしたちの心にも迫ってまいります。ここにはあの詩編51編の詩人のような、自らの深い罪にうちふるえる心があります。主の憐(あわ)れみ、慈(いつく)しみにすがって、その罪をすべてゆるされた人の喜びと感謝があります(詩篇51:19参照)。

残念ですが、新型コロナウイルスの流行のため聖餐式は、いましばらくは行えません。

けれども、聖餐式はございませんが、わたしたちは聖餐式の心を歌ったきょうの聖書のみことばや讃美歌を歌うことを通して、主イエスさまが教えてくださった主の晩餐、聖餐式の深い意味をよく考え、理解し、よく噛(か)みしめてまいりたいと思います。

主の晩餐、聖餐式は主イエスさまの十字架のあがないの死と主イエスさまの復活をわたしたちに想い起させるために主イエス・キリストが備え、用意してくださったのです。

わたしたちはキリストのからだであるパンを食べ、キリストの血しおであるぶどう酒(ぶどう汁)を飲むことによって、いきいきと主を想い起し、主と一つとされるのです。

主の晩餐、聖餐式はこのことをはっきりとわたしたちにも想い起させ、わたしたちの身体(からだ)と心へと伝えます(コリントの信徒への手紙一11:23‐26)。

きょうのみことばは、主イエスさまが十字架の死を前にして弟子たちと最後の晩餐をされ、主の十字架の死と復活の意味を弟子たちの心にきざみつけ、想い起させようとされたことを伝えます。

使徒パウロはここで「主から受けたものです」とはっきり言いきっています(23節)。

わたしたちはこのみことばを通し、また礼拝のなかの聖餐式を通して、主の十字架の死と復活の意味を、心においても、身体(からだ)においても知るのです。

ほんとうに感謝にたえないことです。

わたしたちも先ほどご紹介しましたような詩編51編の詩人と同じように、罪ゆるされ、主のみ前に悔いくずおれ、み名を力いっぱい讃美し感謝せずにはおれなくなります。

受難週、主イエス・キリストのご受難と復活を憶(おぼ)えるこの時、わたしたちは何よりも、主の十字架に心を集中させましょう。

主イエスさまの十字架のあがないの死によってわたしたちが救われたことを想い起し、み名を力いっぱい讃美し、主に感謝いたしましょう。

○ 祈祷

○ 讃美歌 21-303(丘の上の主の十字架)

○ 献金

○ 献金感謝 讃美歌21-65-1(今そなえる)

○ 頌栄 讃美歌21-27(父・子・聖霊の)

○ 祝祷

○ 後奏

○ 報告

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http://www.uccj-kc.jp/2020/04/05/095541/feed/ 0
2020年3月22日主日礼拝  http://www.uccj-kc.jp/2020/03/31/161426/ http://www.uccj-kc.jp/2020/03/31/161426/#respond Tue, 31 Mar 2020 07:14:26 +0000 http://www.uccj-kc.jp/?p=2668  受難節第4主日礼拝順序

○ 前奏

○ 招詞

○ 讃美歌 21-300(十字架のもとに)

○ 日本基督教団信仰告白

○ 主の祈り

○ 聖書朗読 コリントの信徒への手紙一 11:17~11:22    新約聖書P314

まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。

あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。

それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。

なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。

あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。

○ 祈祷

○ 讃美歌  21-487(イェス、イェス)

○ 説教

メッセージ(牧師説教要旨)

2020年3月22日郡山教会主日礼拝説教

『教会の一致』小峰 擁 牧師   コリントの信徒への手紙11:17~11:22

キリストの使徒であるパウロは、主イエスさまからいただいた神さまの恵みの福音を証(あか)しするためならば、命すらも惜しいとは思いませんでした(使徒言行録20:24)。

うれしい知らせ、よい知らせをいただくとわたしたちはうれしくなります。喜びます。

神さまの恵み、神さまのゆるし、神さまの救いの知らせをいただくとわたしたちは、ほんとうにうれしくなる、うれしい、喜びます。神さまのよい知らせ、うれしい知らせ、救いの知らせ。これが福音(ふくいん)です。

ところで、主イエスさまは、親しい弟子たちとともに行った最後の晩餐(ばんさん)の初めに、パンを取り、讃美(さんび)して感謝の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに与えて言われました。

「これは、あなたがたのためのわたしの体(からだ)である。 わたしの記念としてこのように行いなさい 」(コリントの信徒への手紙一11:24)と。

そして食事が終わったとき、主イエスさまはぶどう酒の入った杯を取って、弟子たちに与えて言われました。

「この杯(さかずき)は、わたしの血によって立てられる新しい契約(けいやく)である。 飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい 」と(同上11:25)。

主イエスさまのこのときのお姿とおことばは、弟子たちの心に深く刻まれました。

主イエスさまのご命令どおりに、初代教会の時代から現代にいたるまで、主イエスさまの記念として行い続けられています。

主イエスさまは、神さまとこの世とを和解させられたお方であり、一致のかなめのお方です。

ですから、主イエスさまがわたしたちに与えられる主の晩餐こそ一致のかなめです。それによって、わたしたちは主イエスさまと一つとされます。一致します。

また、愛の御霊(みたま)である聖霊(せいれい)によって、さらに同じキリストの体(からだ)によって養われる兄弟姉妹たちと一致してゆくのです。

使徒パウロはコリントの教会の人々に対し、互いに愛を示さず、無関心であったり、分裂や派閥争いなどをひき起こすような主の晩餐をとりおこなうことは、主の晩餐の尊い名をけがすことであるときょうのみことばで告げています。主にある兄弟姉妹たちです。主イエスさまの十字架のあがない、主の十字架のゆるしによってゆるされた兄弟姉妹たちです。ともに喜びあいながら、ともに主の食卓を囲むようにしましょうといましめ、勧めます。主の食卓に招かれるとき、貧富の差、立場の違いや人種の隔(へだ)てなどすべて無くなります。主にあって、わたしたちはここに安らぎと希望を見出します。

○ 祈祷

○ 讃美歌 21-507(主に従うことは)

○ 献金

○ 献金感謝 讃美歌21-65-1(今そなえる)

○ 頌栄 讃美歌21-27(父・子・聖霊の)

○ 祝祷

○ 後奏

○ 報告

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http://www.uccj-kc.jp/2020/03/31/161426/feed/ 0
2020年3月15日主日礼拝  http://www.uccj-kc.jp/2020/03/26/132139/ http://www.uccj-kc.jp/2020/03/26/132139/#respond Thu, 26 Mar 2020 04:21:39 +0000 http://www.uccj-kc.jp/?p=2655  受難節第3主日礼拝順序

○ 前奏

○ 招詞

○ 讃美歌 21-297(栄えの主イェスの)

○ 日本基督教団信仰告白

○ 主の祈り

○ 聖書朗読 コリントの信徒への手紙一 10:31~11:16    新約聖書P313~314

だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。

わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。

わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。

あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。

ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。

男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。

女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。

女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。

男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。

というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、

男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。

だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。

いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。

それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。 自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。

男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。

この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。

次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。

○ 祈祷

○ 讃美歌  21-497(この世のつとめ)

○ 説教

メッセージ(牧師説教要旨)

2020年3月15日郡山教会主日礼拝説教

『神の教会』小峰 擁 牧師   コリントの信徒への手紙10:31~11:16

先日久しぶりに島村亀鶴(きかく)先生の句集を読んでいました(島村哉哉(さいさい)著『信仰歳時記』)。その中から受難週のところの句をご紹介させていただきます。 「…受難週になると、わたしはよくこの句を短冊などに書いて、人にあげている。」

(島村哉哉)

「洗礼を受く稚(ち)子しずかイースター」

「復活節つばさあるものひるがえり」

「復活の歌うたう顔天使とるる」

いずれも受難週の句なのですが、なぜかもうすでに復活や復活節の句を歌っています。おそらく、受難週の句であるとはしていますが、あえてこのように復活の句、復活の歌を歌っているのではないでしょうか。わたしたちの救い主イエス・キリストの十字架と復活の出来事の意味を改めて深く考えさせられます。

さて、わたしたちの第一コリント書10章、11章ですが、使徒パウロはコリントの教会の人々に語りかけます。

「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。…………」(コリントの信徒への手紙一10:31-11:1)。

使徒パウロのこの語り口は女性のかぶり物についてもまた同じようであります。

使徒パウロはキリストを信ずる者、キリスト者、クリスチャンの生きる指針として、いつも「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」ということを伝えようとします。「神の栄光を現す」とは、神さまのすばらしさを現す、わたしたちも神さまを心から信じて、キリストを信じる者として神さまのすばらしさをわたしたちに与えられた日々の中で現してゆくということでしょう。

ですから、パウロはコリントの教会の信徒に向かって、彼らが神の栄光を現すために、教会の人々に、教会以外の人々に、すべての人につまずきを与えないためにも、細やかな心づかい、細心の注意を払うようにしなさいというのです。このような心でパウロはいま彼らに手紙を書き送っています。パウロは女性のかぶり物についてはきわめて慎重な態度をとっています。当時の習俗、人々の習慣や伝統にも配慮し、あえてそのままでもいいものはそれらを崩そうとはいたしませんでした。ある意味でパウロはかなり苦心しながらもそれらを聖書のみことばから弁護しているといってもいいかもしれません。

キリストにあって、信仰によって、男女が平等であり、神さまのみ前に共に平等の人格であることは明らかであるということを踏まえた上で、パウロはあえてこのようにいっているのでしょう(同上10章11、12節参照)。わたしたちも大いに考えさせられます。わたしたちも神さまによく祈り、神さまのみこころをたずね求めてまいりましょう。

○ 祈祷

○ 讃美歌 21-530(主よ、こころみ)

○ 献金

○ 献金感謝 讃美歌21-65-1(今そなえる)

○ 頌栄 讃美歌21-27(父・子・聖霊の)

○ 祝祷

○ 後奏

○ 報告

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http://www.uccj-kc.jp/2020/03/26/132139/feed/ 0
2020年3月8日主日礼拝  http://www.uccj-kc.jp/2020/03/15/094619/ http://www.uccj-kc.jp/2020/03/15/094619/#respond Sun, 15 Mar 2020 00:46:19 +0000 http://www.uccj-kc.jp/?p=2652  受難節第2主日礼拝順序

○ 前奏

○ 招詞

○ 讃美歌 21-210(来る朝ごとに)

○ 日本基督教団信仰告白

○ 主の祈り

○ 聖書朗読 コリントの信徒への手紙一 10:14~33   新約聖書 P312~313

わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。

わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。

わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。

パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。

肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。

わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。

いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。

主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。

それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。

「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。

だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。

市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。

「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。

あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。

しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。

わたしがこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。

わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。

だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。

わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。

○ 祈祷

○ 讃美歌  21-449(千歳の岩よ)

○ 説教

メッセージ(牧師説教要旨)

2020年3月8日郡山教会主日礼拝説教

『神の栄光』小峰 擁 牧師   コリントの信徒への手紙一10:14~33

「主にまかせよ」という讃美歌があります。「汝(な)」がとは「なんじ」「あなた」のことです。

「主にまかせよ、 汝(な)が身を、

主はよろこび たすけまさん。

しのびて 春を待て、

雪はとけて 花は咲かん。

あらしにも やみにも

ただまかせよ、 汝(な)が身を。…………」

(讃美歌291「主にまかせよ」)

わたしたちの悩める魂に向かって語りかけてくれるようなとても慰め深い歌詞です。

さて、第一コリント書10章のみことばはわたしたちに向かって語りかけます。

「汝(なんじ)らが遭ひ(あい)し試練(こころみ)は人の常(つね)ならぬはなし。神は真実(まこと)なれば、汝らを耐え忍ぶこと能は(あたわ)ぬほどの試練(こころみ)に遭は(あわ)せ給は(たまわ)ず。汝らが試練(こころみ)を耐え忍ぶことを得(え)んために、之(これ)と共に遁(のが)るべき道を備へ(え)給は(たまわ)ん」(文語訳、コリント前書10:13)。

わたしたちもいつもこのみことばを想い起したいものです。

何度も口ずさみ、心の中でも固い食物をよく噛(か)むように、よく味わい、養われたいものです。わたしたちもこのみことばに、おおいに教えられ、慰められます。

神さまの試練はわたしたちを倒すためではありません。神さまはわたしたちを愛し、憐(あわ)れんでくださいます。より強く立たせようとされるのですから、必ず逃れの道をも備えてくださいます。

神さまはわたしたちにどんなことがあっても、頭をかかえてしまうようなむずかしい問題があっても、わたしたちに必ず逃れの道を備えていてくださいます。

旧約聖書の創世記22章の神さまがアブラハムを試みる物語の中にありますような、「アドナイ・エレ」「主備えたもう」「主の山に備えあり」です。「アドナイ・イルエ」「主見たもう」です(創世記22:13、14)。

神さまは、主イエスさまは、あわれみ、愛してくださいます。わたしたちのことを、愛情をもってみつめていてくださいます。主イエスさまがわたしたちのことを愛し、心配してくださいます。わたしたちも、どんなときでも、「アドナイ・エレ」「主備えたもう」「主の山に備えあり」を信じましょう。「アドナイ・イルエ」「主見たもう」を信じましょう。ここに神さまの慰め、主イエスさまの慰めがあります。

○ 祈祷

○ 讃美歌 21-531(主イェスこそわが望み)

○ 献金

○ 献金感謝 讃美歌21-65-1(今そなえる)

○ 頌栄 讃美歌21-27(父・子・聖霊の)

○ 祝祷

○ 後奏

○ 報告

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http://www.uccj-kc.jp/2020/03/15/094619/feed/ 0
2020年3月1日主日礼拝  http://www.uccj-kc.jp/2020/03/08/095429/ http://www.uccj-kc.jp/2020/03/08/095429/#respond Sun, 08 Mar 2020 00:54:29 +0000 http://www.uccj-kc.jp/?p=2646  受難節第1主日礼拝順序

○ 前奏

○ 招詞

○ 讃美歌 21-289(みどりもふかき)

○ 日本基督教団信仰告白

○ 主の祈り

○ 聖書朗読 コリントの信徒への手紙一 10:1~13   p.311~12

わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。

わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。

わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。

パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。

肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。

わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。

いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。

主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。

それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。

「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。

だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。

市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。

「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。

あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。

しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。

わたしがこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。

わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。

だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。

わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。

○ 祈祷

○ 讃美歌  21-533(どんなときでも)

○ 説教

メッセージ(牧師説教要旨)

2020年3月1日郡山教会主日礼拝説教

『神の栄光』  小峰 擁  コリントの信徒への手紙一 10:14~33

わたしたちはやはり「こどもさんびか」の歌詩にもありますように、たとえ「どんなときでも」、神さまから愛をいただいて、主イエスさまから慰めと希望をいただいて感謝のうちに歩ませて、生かさせていただきたいものです。

「       どんなときでも

どんなときでも どんなときでも くるしみにまけず くじけてはならない

イェスさまの イェスさまの あいをしんじて

どんなときでも どんなときでも しあわせをのぞみ くじけてはならない

イェスさまの イェスさまの あいがあるから   」

(1987年版『こどもさんびか』120番)

きょうのみことば第一コリント書10章1‐13節は、イスラエルの民の歴史の中から警告が与えられています。6節、11節に「前例として」とあります。ここは「警告として」とも訳されています。もともと「型(かた)として」という意味の語です。「型」、「タイプ」(「トゥポス」)という語が使われています。コリント教会をはじめ全キリスト教会にイスラエルの民の歴史からの前例、警告、型が与えられているというのです。

当時のキリスト教会にとっての聖書、わたしたちの旧約聖書のことです。

つまりここでは偶像への礼拝の悪によって滅びた出来事によって警告、前例、型としてイスラエルの民の歴史、旧約聖書の歴史からいくつもの例が述べられてゆきます。

これらの警告は旧約聖書の歴史の中から、ここではモーセ五書(ごしょ)の「出エジプト記」や「民数記」などに記されていますように、神さまの恵みによってイスラエルの民がエジプトから脱出できたのに、荒野をさすらう中で神さまのみことばに聴(き)き従うことができなかった出来事が教訓、警告としてとらえられています。しかも、特に主(しゅ)キリストと主キリストの民である教会との関係の中で考えられています。

わたしたちもあるとき、むしょうに腹が立ったり、心がたかぶったりするときがあるかもしれません。そんなときでも祈って、心を静め、また周りを見回して、人の意見にも謙虚に耳を傾けるとき、案外違った思いや気分、考えを与えられるときがあります。

(ここの文章の流れの中では、6節、11節がここでの区切り、まとめのような、あるいはあとへのつなぎのような役目、役割を果たしています。6節以下も、11節以下もそうです。そして、特に13節はわたしたちにとってとても感動的です。)

わたしたちの人生においても、どんなときでも、神さまは逃れの道を用意していてくださる、備えていてくださるというのです。ここにわたしたちの慰めの道があります。

救い主(すくいぬし)イエスさまというお方の慰めの中を、逃れの道、慰めの道をわたしたちも歩ませていただきましょう。ここにほんとうのやすらぎがあります。

○ 祈祷

○ 讃美歌 21-566(むくいをのぞ望まで)

○ 聖餐式

○ 讃美歌 21-78(わが主よ、ここに)

○ 献金

○ 献金感謝 讃美歌21-65-1(今そなえる)

○ 頌栄 讃美歌21-27(父・子・聖霊の)

○ 祝祷

○ 後奏

○ 報告

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2020年2月16日主日礼拝  http://www.uccj-kc.jp/2020/03/07/105252/ http://www.uccj-kc.jp/2020/03/07/105252/#respond Sat, 07 Mar 2020 01:52:52 +0000 http://www.uccj-kc.jp/?p=2634  降誕節第8主日礼拝順序

○ 前奏

○ 招詞

○ 讃美歌 21-6(つくりぬしを賛美します)

○ 日本基督教団信仰告白

○ 主の祈り

○ 聖書朗読 コリントの信徒への手紙一 9:1~18    P310~311

わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。

他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。

わたしを批判する人たちには、こう弁明します。

わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。

わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。

あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。

そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。

わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。

モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。

それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。

わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。

他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。

あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。

同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。

しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。

もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。

自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。

では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。

○ 祈祷

○ 讃美歌  21-161(見よ、主の家族が)

○ 説教

メッセージ(牧師説教要旨)

2020年2月16日郡山教会主日礼拝説教

『キリストの福音』小峰 擁 牧師   コリントの信徒への手紙9:1~18

先日、久しぶりに星野富弘さんの詩画集『いのちより大切なもの』を読み直していました。そうしましたら、コスモスの絵とその前のページのことばが急に心の中に入ってきました。いままで何度も読んできたはずなのですが、なにか初めて出会った絵とことばのようでした。そのコスモスの絵も嵐の夜に枝が折れてしまったけれども、朝がきて光の中できれいに咲いているように思えました。星野富弘さんの文章は次のようです。

「失われたところは、 いつまでも穴が  あきっぱなしではないのである。

穴を覆(おお)うために、人は知らず知らず 失ったもの以上にたくさんのものを、 そこにうめあわせる技(わざ)を、 神さまから授(さず)かっている。」(星野富弘著『いのちより大切なもの』(いのちのことば社刊)。

このような思いの中で、第一コリント書9章のきょうのみことばを読んでいました。使徒パウロがあえて使徒としての権利を辞退、放棄するところです(コリントの信徒への手紙一9:4、5、6、12)。それは一見、パウロの人間的な誇りを語っているようにさえ読めなくもありません(同12節後半、15節)。

しかしながら、使徒パウロはこの使徒の権利の辞退、放棄を自分の功績として誇ることはありませんでした。自分の行いを誇るのではありません。パウロは「神の前にはそれはできません」(ローマ4:2参照)というのが真意、まことの気持ちだったのです。

パウロは主イエス・キリストの愛のゆえに、それを、あえて辞退、放棄いたします。パウロはこの権利を用い尽くしません。

それはあたかも主イエスさまがそうであったようにです(フィリピ2:6、8参照)。

主イエス・キリストの卑見(ひけん)、へりくだりの心に倣(なら)ってそうするのです。パウロの心にはおそらくいつも主イエスさまがいて、そのようにするのでしょう。

そして、そこから、一人でも多くの人に主イエス・キリストの福音を伝えたいというのが使徒パウロのほんとうの心でありましょう(コリントの信徒への手紙一9:16‐18)。

ここにこそ使徒パウロの主にある喜びと満足、誇りがあります。神さまのみ前にほんとうの喜びと慰めがあるのです。それはすべて神さまが喜びたもうところだからです。

パウロは神さまの栄光のためにそうしているといっていいでしょう。

しかしながら、わたしたちとしては、なかなか使徒パウロのようなわけにはいかないかもしれません。それが現実なのかもしれません。けれども、主イエス・キリストの十字架の愛、そしてまた主の愛の心に少しでもお応(こた)しようとする使徒パウロの心を思うとき、わたしたちの心もまた動かされます。

キリストの教会の福音伝道は、主の十字架の愛に基づきます。神さまのご栄光をあらわすところにあります。神さまの愛によって、わたしたちも変えていただきましょう。

○ 祈祷

○ 讃美歌 21-394(信仰うけつぎ)

○ 献金

○ 献金感謝 讃美歌21-65-1(今そなえる)

○ 頌栄 讃美歌21-27(父・子・聖霊の)

○ 祝祷

○ 後奏

○ 報告

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2020年2月9日主日礼拝  http://www.uccj-kc.jp/2020/02/20/165814/ http://www.uccj-kc.jp/2020/02/20/165814/#respond Thu, 20 Feb 2020 07:58:14 +0000 http://www.uccj-kc.jp/?p=2629  降誕節第7主日礼拝順序

○ 前奏

○ 招詞

○ 讃美歌 21-16(われらの主こそは)

○ 日本基督教団信仰告白

○ 主の祈り

○ 聖書朗読 コリントの信徒への手紙一 8:7~13    P309~310

しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。

わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。

ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。

知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。

そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。

このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。

それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

 

○ 祈祷

○ 讃美歌  21-214(わが魂のひかり)

○ 説教

メッセージ(牧師説教要旨)

2020年2月9日郡山教会主日礼拝説教

『その兄弟のためにも』小峰 擁 牧師   コリントの信徒への手紙8:7~13

新約聖書の時代のギリシャやローマでは偶像の供え物の残りが市場でも売られていました。わたしたちの第一コリント書8章の中には、偶像の供え物である肉をキリスト信徒が食べていいのかどうかという問題への使徒パウロの答えが記されています。

ただし、キリスト信徒はその肉を食べてもいいということを知っていても、時と場合によっては兄弟のために、つまり、愛のために食べないこともあるのだというのです。

隣人を愛する愛の立場から、兄弟をつまずかせないようにするために、配慮して食べないこともあるのだということを使徒パウロはこの手紙の中でコリントの教会の人々に書き送っています。

なぜこのようなことを長々と論じているのか不思議に思われるかもしれません。そのわけは特に異教から改宗した信徒たちはこのような魔法の力が偶像から出ると考えたからでありましょう。いままでの偶像についての魔術的な習慣から、偶像の供え物である肉を食べたりすると汚されると考えてしまったのでありましょう(7、8、9節参照)。

前田護郎訳『新約聖書』のここのところの訳註にはこのようにありました。「律法から自由に生きつつも弱い人への愛のゆえに良識的な生活をするようパウロは勧める。福音的倫理の一面である」(前田護郎訳『新約聖書』)第一コリント書8章)と。

このようなことはいまを生きるわたしたちにも、大切なことでありましょう(この考え方はわたしたちの直面するさまざまな同じような問題にも応用可能でありましょう)。

11節にありますように、実に、

「その兄弟のためにもキリストは死んでくださったのです」(新共同訳)。

「キリストはその兄弟のために死にたもうた」(前田訳)のです。

さらにいうならば、ここはその人のため「にも」ではなく、その人のため「に」ではないでしょうか。このように読むとき、わたしたちの心の向きの何かが変わってくるのではないでしょうか。

(実に、キリストはこのわたしのことをどこまでも愛してくださり、このわたしを救うためになんと十字架の上で死んでくださったのです!)パウロはただ言葉だけでなく、ほんとうにキリストの十字架の愛を信じたからでしょう。パウロは12、13節にありますように、ずいぶん強い調子でこの手紙を書いています。わたしたちも、ここで、人を愛するということはいったいどういうことなのか、もう一度深く考えさせられます。人を愛するということはほんとうにむずかしいことなのかもしれません。

けれども、わたしたちは一つ一つのことを神さまに祈ることによって、キリストに一つ一つのことを親しく教えていただくことによって、一歩一歩足を前へと進めることができます。ですから、いつも喜び、神さまに感謝し、祈り、願いましょう。

○ 祈祷

○ 讃美歌 21-394(信仰うけつぎ)

○ 献金

○ 献金感謝 讃美歌21-65-1(今そなえる)

○ 頌栄 讃美歌21-27(父・子・聖霊の)

○ 祝祷

○ 後奏

○ 報告

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http://www.uccj-kc.jp/2020/02/20/165814/feed/ 0
2020年2月2日主日礼拝  http://www.uccj-kc.jp/2020/02/20/164730/ http://www.uccj-kc.jp/2020/02/20/164730/#respond Thu, 20 Feb 2020 07:47:30 +0000 http://www.uccj-kc.jp/?p=2623  降誕節第6主日礼拝順序

○ 前奏

○ 招詞

○ 讃美歌 21-204(よろこびの日よ)

○ 日本基督教団信仰告白

○ 主の祈り

○ 聖書朗読 コリントの信徒への手紙一 8:1~6   p.309

偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。

自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。

しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。

そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。

現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、

わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。

○ 祈祷

○ 讃美歌  21-533(どんなときでも)

○ 説教

メッセージ(牧師説教要旨)

2020年2月2日郡山教会主日礼拝説教

『愛は造り上げる 』  小峰 擁  コリントの信徒への手紙一 8:1~6

さて、第一コリント書8章から11章1節までは偶像について述べられてゆきます。特に最初の8章の1-6節は「知識と愛」、「知と愛」ということでしょう。

パウロは先ず偶像などはもちろんないものであるから、偶像の供え物を食べても少しも汚れないという知識があることは知っているというのです。

しかし、その知識は人を誇らせ、高ぶらせてしまうと指摘します。

むしろ、大切なのはここでも知識であるよりも、愛なのだというのです。

愛は徳を建てる、愛は造り上げるのだというのです。

「造り上げる」という語(オイコドメオー)は本来「建物を建てる」という意味です。ここでは「徳を建てる」、「徳を高める」という意味になります。

つまり、愛がなくては、単なる知識のみではほんとうの知識ではないということです。愛こそキリストを信ずるわたしたちにとっていちばん必要なものです。キリストを信ずる群れ、教会の徳も、愛によって建てられてゆくのだというのです。

パウロはこの手紙の1章19節で「キリストの十字架の虚(むな)しくならざらん為なり」ということを言っています。

「而(しか)して言(ことば)の智慧(ちえ)をもってせず、是(これ)キリストの十字架の虚(むな)しくならざらん為なり。それ十字架の言は亡(ほろ)ぶる者には愚(おろか)なれど、救は(わ)るる我らには神の能力(ちから)なり」(コリント前書1:17、18、文語訳)。

ここでもやはり同じようであります。

教会の徳は、知識によってではなく、愛によってこそ建ってゆくのだというのです。わたしたちにもこの世にあってさまざまな出来事が起こってくるのかもしれません。

偶像の問題も決して昔の問題ではありません。

しかし、偶像は形があっても、それは神さまではありません。木や石にすぎません。

まことの神さまは父なる唯一の神さまのみです。唯一の主イエス・キリストあるのみです。

わたしたちはキリストを通して、まことの神さまを信ずるのです。

キリストの使徒パウロはこのようにわたしたちクリスチャンの拠(よ)って立つべき真理を明らかにしています。

わたしたちも、さまざまなむずかしい問題を考えなければならないときもあるかもしれません。

そのような時こそ、父なる神さまから、主イエスさまから考え、祈ってゆきましょう。主イエスさまに教えていただきましょう。

○ 祈祷

○ 讃美歌 21-566(むくいをのぞ望まで)

○ 聖餐式

○ 讃美歌 21-78(わが主よ、ここに)

○ 献金

○ 献金感謝 讃美歌21-65-1(今そなえる)

○ 頌栄 讃美歌21-27(父・子・聖霊の)

○ 祝祷

○ 後奏

○ 報告

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http://www.uccj-kc.jp/2020/02/20/164730/feed/ 0
2020年1月26日主日礼拝  http://www.uccj-kc.jp/2020/02/20/163402/ http://www.uccj-kc.jp/2020/02/20/163402/#respond Thu, 20 Feb 2020 07:34:02 +0000 http://www.uccj-kc.jp/?p=2612  降誕節第5主日礼拝順序

○ 前奏

○ 招詞

○ 讃美歌 21-17(聖なる主の美しさと)

○ 日本基督教団信仰告白

○ 主の祈り

○ 聖書朗読 コリントの信徒への手紙一 7:25~7:40    P308~309

未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。

今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。

妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。

しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。

兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、

泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、

世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。

思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、

結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、

心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。

このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。

もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。

しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。

要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。

妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります。

しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。わたしも神の霊を受けていると思います。

○ 祈祷

○ 讃美歌  21-214(わが魂のひかり)

○ 説教

メッセージ(牧師説教要旨)

2020年1月26日郡山教会主日礼拝説教

『この世の有様は過ぎ去る』小峰 擁 牧師   コリントの信徒への手紙7:25~7:40

いま歌いました讃美歌21の17番「聖なる主の美しさと」も、こどもさんびかの「かみさまのあいは(しみとおる)」(讃美歌21‐171番)も、わたしたちキリストを信ずる者、クリスチャンがそれぞれに歩む道を、人生の日々をさし示しているのではないでしょうか。

わたしたちは使徒パウロのコリントの信徒への手紙一の中から、わたしたちの実際の生活の大切な指針を与えられるように思われます。

それはこの手紙の中に信仰の深い洞察があるからです。たとえば、この手紙の13章の愛の讃歌、15章の復活についてなど、わたしたちにとって忘れることができない、いつもわたしたちが帰ってゆくべきところがさし示されているからです。

きょうの7章も、使徒パウロが結婚などについて述べられています。主のみこころを一生懸命にたずね求め、祈りをもってこの手紙は認(したた)められています。

使徒パウロがこのように祈りつつ述べたものですので、そのうちには聴(き)くべきものがあるのではないでしょうか。パウロ個人としては、独身主義のようなところもあります。結婚の豊かさを低くみているようなところも確かにあります。けれども、かえって、わたしたちにとってそこから多くのことをも教えられるように思うのであります。

パウロはここで自分の意見であるとしています。「わたしとしては、皆がわたしのように独(ひと)りでいてほしい」(コリントの信徒への手紙一7章7節)、「主ではなくわたしが言うのです」(12節)、「未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、……」(25節)と語りだしています。

さらに、自分を抑制できない、そうしたことのなかに人間の弱さをもパウロは見つめています。そのような場合であってもその人を柔軟に受け容(い)れ、認めています(5節、9節など)。

このようなことを、パウロはいま神さまの救いの時の切迫の中から語っているのです。

「兄弟たち、……定められた時は迫っています。今からは、……すべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。思い煩わないでほしい。……このようにわたしが言うのは、……品位ある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです」(29節‐35節)と。

ここからわたしたちはどうしても主のお召し、召命ということを考えさせられます。わたしたちそれぞれが、自分に与えられた場所で、どのように主にお仕えしてゆくのかがいまひとりひとりに問われているのではないでしょうか。このことをよく憶(おぼ)えて、わたしたちも神さまに祈ってまいりましょう。

神さまはいまこの時の中で、わたしたちそれぞれにいちばんふさわしい道、わたしたちが生きる良い道を備えてくださいます。そして、逃れの道をも備えてくださいます。

○ 祈祷

○ 讃美歌 21-394(信仰うけつぎ)

○ 献金

○ 献金感謝 讃美歌21-65-1(今そなえる)

○ 頌栄 讃美歌21-27(父・子・聖霊の)

○ 祝祷

○ 後奏

○ 報告

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2020年1月19日主日礼拝  http://www.uccj-kc.jp/2020/02/20/162351/ http://www.uccj-kc.jp/2020/02/20/162351/#respond Thu, 20 Feb 2020 07:23:51 +0000 http://www.uccj-kc.jp/?p=2610  降誕節第4主日礼拝順序

○ 前奏

○ 招詞

○ 讃美歌 21-3(扉を開きて)

○ 日本基督教団信仰告白

○ 主の祈り

○ 聖書朗読 コリントの信徒への手紙一 7:17~7:24    P307~308

おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときのままの状態で歩みなさい。これは、すべての教会で私が命じていることです。

割礼を受けている者が召されたのなら、その痕を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。

割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の戒めを守ることです。

おのおの召されたときの状態にとどまっていなさい。

召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。

というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。

あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。

兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい

○ 祈祷

○ 讃美歌  21-543(キリストの前に)

○ 説教

メッセージ(牧師説教要旨)

2020年1月19日郡山教会主日礼拝説教

『キリストのあがない』小峰 擁 牧師

コリントの信徒への手紙 7:17~7:24

讃美歌21‐503番の「キリストの前に」はとても良い讃美歌だと感謝しています。この讃美歌を1節、2節、3節と歌う中で、歌うたびに「何か」を教えられるように思います。その「何か」とは、歌詞にもありますように「キリストの愛」、「キリストの道」、「キリストの恵み」ということでありましょう。じつに、わたしたちの一日一日は「キリストの前に」、「神さまのみ前」に生きるということなのです。

さて、本日の聖書の箇所に「身分」とありますが、「身分」というよりも「境遇」、「状態」と訳すほうがふさわしいように思えてなりません。

前田護郎訳『新約聖書』ではたとえば17節をこのように翻訳します。「おのおの主がお定めのように、おのおのを神がお召しのように、そのままに歩むべきです」(前田護郎訳、第一コリント書7章17節)。また24節ではこのように訳します。「兄弟方、おのおのが召された状態で神の前にいてください」(同上7章24節)。

このようにきょうのところには「召す」ということばが何度も出てまいります。

そして17節も、20節も、24節も、だいたい同じような言い方になっています。

文語訳ですとここの意味がいちばんはっきりとしてまいります。「唯(ただ)おのおの主(しゅ)の分(わか)ち賜(たも)うところ、神の召し給(たも)うところに循(したが)いて歩むべし」(17節)。「各人(おのおの)その召されし時の状(さま)に止(とどま)るべし」(20節)。「兄弟よ、おのおの召されし時の状(さま)に止(とどま)りて神と偕(とも)に居(お)るべし」(24節)。

わたしたちの歩みはみんなそれぞれにほんとうにさまざまです。けれども、神さまのみ前に生きるという点では、わたしたちの歩みはじつは一つなのではないでしょうか。このことをここから教えられます。

特に「神と偕(とも)に居(お)るべし」とはなんとも大胆な訳で、ほんとうに驚かされます。前田訳の「神の前にいてください」、新共同訳の「神の前にとどまっていなさい」よりもはるかに先を歩んでいるのではないでしょうか。わたしたちも、キリストによって自由な、解放された道を歩むことをゆるされたのです。ですから、それこそ大胆に、思いっきり、勇気をもって、それぞれの道を歩むように招かれているのです。

わたしたちはキリストの十字架のあがないによって救われ、自由とされました。わたしたちの罪はゆるされたのです。その意味で前田訳のここの訳註にとても考えさせられました。「奴隷として十字架上に死したキリストによって罪の奴隷が自由人にされ、この解放者キリストの奴隷として万人自由化の聖業(みわざ)に招かれる」(前田訳訳註)。

罪の奴隷であったわたしたちがキリストの十字架の死によって救われ、自由とされたのです。これからはキリストの奴隷としてすべての人に神さまの愛をお伝えしましょう。

○ 祈祷

○ 讃美歌 21-390(主は教会の基となり)

○ 献金

○ 献金感謝 讃美歌21-65-1(今そなえる)

○ 頌栄 讃美歌21-27(父・子・聖霊の)

○ 祝祷

○ 後奏

○ 報告

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