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日本キリスト教団(日本基督教団)郡山教会公式サイト http://www.uccj-kc.jp 福島県郡山市にある、日本キリスト教団(日本基督教団)に属するプロテスタントの教会。主日礼拝は、毎週日曜日10時30分からです。どなたでもおいでください。教会にはあなたの席が用意されています。|United Church of Christ in Japan Koriyama Church Official Site. Sun, 13 Oct 2019 02:56:37 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=4.8.11 http://www.uccj-kc.jp/wp/wp-content/uploads/2014/03/cropped--32x32.jpg 日本キリスト教団(日本基督教団)郡山教会公式サイト http://www.uccj-kc.jp 32 32 2019年10月6日主日礼拝  http://www.uccj-kc.jp/2019/10/13/115637/ http://www.uccj-kc.jp/2019/10/13/115637/#respond Sun, 13 Oct 2019 02:56:37 +0000 http://www.uccj-kc.jp/?p=2501  聖霊降臨節第18主日礼拝順序

○ 前奏

○ 招詞

○ 讃美歌 21-204(よろこびの日よ)

○ 日本基督教団信仰告白

○ 主の祈り

○ 聖書朗読 コリントの信徒への手紙一 3:18~23   p.302~303

だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。

この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。「神は、知恵のある者たちを/その悪賢さによって捕らえられる」と書いてあり、

また、/「主は知っておられる、/知恵のある者たちの論議がむなしいことを」とも書いてあります。

ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。

パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、

あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。

○ 祈祷

○ 讃美歌  21-393(こころを一つに)

○ 説教

メッセージ(牧師説教要旨)

2019年10月6日郡山教会主日礼拝説教

『あなたがたはキリストのもの』

<コリントの信徒への手紙一 3:18‐23> 小峰 擁

きょうのコリントへの信徒への手紙一3章18節以下ですが、特に21節に、「だから、だれも人間を誇るな」(岩隈 直訳註『コリント人への手紙上』3:21)とあります。

ここの「誇る」という語(「カウカオマイ」)は「誇る、誇りとする、誇り高ぶる、自慢する、(勝利者として)勝ち誇る」といったような意味なのです。自分を誇る意味にも、神さまを誇る意味にも、文脈によってどちらにも使われます。

このように聖書では良い意味にも(「神さまを誇る」など)、またそうでない意味にも(「人間が自分を誇る」など)、「誇る」という同じ言葉で述べられています。

たとえば、コリントの信徒への手紙一の1章では、「これはだれも神の前に誇らないためである」(同上1:29)、あるいは「それは「誇る者は主を誇れ」と書かれている通りになるためである」(同上1:31)というようにです。

わたしたち人間の知恵には限界があります。ですから、わたしたちは限界のある自分を誇るのではなくて、全知全能の主なる神さまを誇るのです。わたしたちの天の父なる神さまを誇る、十字架の主、復活の主イエス・キリストを誇る、救い主イエスさまを誇るのです。このことが大切です。

このことは、全聖書(旧約聖書・新約聖書)一貫した聖書の信仰の基本線でありましょう。

前田護郎訳『新約聖書』の訳註にはこのようにありました。

「人物を崇拝せず、分争を避けてすべてを神からゆだねられた責任を果たせ、との意。信徒に万物を賜わることについてはローマ8・32。」(前田護郎訳『新約聖書』第一コリント書3章訳註)。

この訳註はここを読む者に、とても有益なように思われます。

ここで使徒パウロはコリント教会の信徒に向かって、やさしく、かつはっきりとこのように語りかけます。

「すべてはあなた方のものです。」(同上3:21)。

「パウロでも、アポロでも、ケパでも、世界でも、生でも、死でも、今あるものでも、来るべきものでも、すべてあなた方のものです。」(同上3:22)。

「あなた方はキリストのもの、キリストは神のものです。」(同上3:23)。

パウロは21節、22節、23節としだいに「考えを神にまで遡らせる」(キュンメルの註解)のです。

(わたしたちも、使徒パウロからこのような神さまを信ずる者、主イエスさまを信ずる者の心、ものごとの考え方を教えられます。

神さまが、主イエスさまがいつもわたしたちを愛してくださいます。導いてくださいます。救ってくださいます。)

○ 祈祷

○ 讃美歌 21-566(むくいを望まで)

○ 聖餐式

○ 讃美歌 21-78(わが主よ、ここに)

○ 献金

○ 献金感謝 讃美歌21-65-1(今そなえる)

○ 頌栄 讃美歌21-27(父・子・聖霊の)

○ 祝祷

○ 後奏

○ 報告

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http://www.uccj-kc.jp/2019/10/13/115637/feed/ 0
2019年9月29日主日礼拝  http://www.uccj-kc.jp/2019/10/06/093926/ http://www.uccj-kc.jp/2019/10/06/093926/#respond Sun, 06 Oct 2019 00:39:26 +0000 http://www.uccj-kc.jp/?p=2497  聖霊降臨節第17主日礼拝順序

○ 前奏

○ 招詞

○ 讃美歌 21-17(聖なる主の美しさと)

○ 日本基督教団信仰告白

○ 主の祈り

○ 聖書朗読 コリントの信徒への手紙一 3:10~17  P30

わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。

イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。

この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、

おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。

だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、

燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。

神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。

○ 祈祷

○ 讃美歌  21-360(人の目には)

○ 説教

メッセージ(牧師説教要旨)

2019年9月29日郡山教会主日礼拝説教

『神の宮』 小峰 擁

「聖霊よ、降りて」という讃美歌があります。

「聖霊よ、降(くだ)りて むかしのごとく

くすしき御業(みわざ)を 現(あらわ)したまえ。

(くりかえし)

代々(よよ)にいます 霊(れい)なる神よ。

来たりてこの身に 満ちさせたまえ。……」

(讃美歌21‐343番1節)

と歌ってまいります。

神さまのみ霊(たま)、聖霊が、神さまの宮、神さまの建物である教会に、そしてわたしたちの中にも臨んでくださる、その中に住んでくださるということが歌われます。

そうです。わたしたちも神さまの宮であり、神さまの建物なのです。

神さまの宮、神さまの建物である教会は十字架の主、復活の主イエス・キリストという土台の上にしっかりと据えられています。

神さまの教会、キリストの教会なのです。

ですから、教会に、そしてわたしたちにも、天の父なる神さまの御霊であり、御子なるイエスさまの御霊である聖霊が降されます。聖霊によって、いままでも、いまも、そしていつまでも導かれ、守られ、成長させられてゆくのです。

きょうのコリントの信徒への手紙一3章もそのことを言っています。

10節以下では、ある一つの教会の誕生に与(あず)かったそれぞれの伝道者たちの福音宣教の働きも、それが朽ちるものであるのか、朽ちないものであるのかは、かの日に、神さまの救いの完成の日に、火の中ではっきりとわかってくるのだというのです。

特に15節は、「ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」というのです。これはどの伝道者にとってとても慰め深いみことばのように思われます。

ただし、教会のために働くのは必ずしも伝道者の奉仕だけではないかもしれません。わたしたちキリストを信ずる者、キリスト者すべてのことであるでしょう。

17節に「あなたがたはその神殿なのです」とあるとおりです。

ここの原文の直訳は「あなたがたはそれ(神の宮、神の神殿)です」となります。

罪人であっても、誰もが主を信じることによってその人の中に聖霊が宿るのです。

いつまでも残るもの、朽ちないものは神さまの愛、主の恵みです。

イエスさまを主と仰いで、最後まで、わたしたちも同じ歩みで天の国を指して歩ませていただきたいものです。

主の十字架のゆるしと愛によって、この喜びと感謝のうちに神さまから与えられた恵みの日々を歩ませていただきましょう。

○ 祈祷

○ 讃美歌 21-459(飼い主わが主よ)

○ 献金

○ 献金感謝 讃美歌21-65-1(今そなえる)

○ 頌栄 讃美歌21-27(父・子・聖霊の)

○ 祝祷

○ 後奏

○ 報告

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http://www.uccj-kc.jp/2019/10/06/093926/feed/ 0
2019年9月22日主日礼拝  http://www.uccj-kc.jp/2019/09/29/093335/ http://www.uccj-kc.jp/2019/09/29/093335/#respond Sun, 29 Sep 2019 00:33:35 +0000 http://www.uccj-kc.jp/?p=2490  聖霊降臨節第16主日礼拝順序

○ 前奏

○ 招詞

○ 讃美歌 21-210(来る朝ごとに)

○ 日本基督教団信仰告白

○ 主の祈り

○ 聖書朗読 コリントの信徒への手紙一 3:1~9   P302

兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。

わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。

相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。

ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。

アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。

わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。

ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。

わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。

 

○ 祈祷

○ 讃美歌  21-361(この世はみな)

○ 説教

メッセージ(牧師説教要旨)

2019年9月22日郡山教会主日礼拝説教

『神の畑』 小峰 擁

収穫感謝の讃美歌ですが、「人は畑をよく耕し」という歌があります(讃美歌21‐386番)。

「人は畑を よく耕し、      よい種子(たね)蒔(ま)いて、 実りを待つ。

陽(ひ)を輝かせ、 雨を降らせ、 ただ、神だけが 育てられる。

(くりかえし)

良いものみな 神から来る。    その深い愛をほめたたえよ。」(讃美歌21‐386番1節)と歌ってゆきます。

この歌詩にもありますように、まことに「ただ、神だけが 育てられる。」、「 良いものみな 神から来る。」です。まことにそのとおりであります。

コリントの信徒への手紙一3章1節以下でありますが、天の父なる神さまこそ、わたしたちのまことの主人であって、わたしたちは神さまの召使いに過ぎません。アポロも、パウロも、みんなそうなのだ、みんな「育ての神の召使い」なのだ、というのです。

前田護郎先生もここのところをそのやさしいお人柄がにじみ出るような個性的な訳文をもって翻訳をされています。ここには「育ての神の召使い」との小見出しが付けられています。

「兄弟方、わたしもあなた方には、霊の人に対するようにではなく、肉の人、キリストにある幼子(おさなご)に対するように話しました。……」(前田護郎訳『新約聖書』第一コリント書3:1)。ここで「霊の人」とは霊的に、信仰的に成熟した者の意です。「肉の人」、「幼子」は生まれながらの人であり、信仰的に未熟な者を指しています(同書訳註)。わたしたちも、いわばここの「肉の人」、「幼子」と言っていいのかもしれません。

使徒パウロはここでコリント教会固有の具体的な問題の核心へと迫ります。生まれてしばらくたったコリント教会の信徒間での妬(ねた)みや争いがあることを指摘します。パウロはそういうあなた方は「霊の人」ではなく、まだ「肉の人」であって、「人間的にお歩きではありませんか。」((前田護郎訳『新約聖書』第一コリント書3:3)、「ただの人間ではありませか。」(同上4節)と問うのです。

「アポロが何ですか。パウロが何ですか。……しかし育てたもうたのは神です。」(同上6節)、「……育てたもう神が」大切です。」(同上7節)、「われらは神の協力者、あなた方は神の畑、神の建物だからです。」(同上9節)とパウロは言い切ります。

さきほどの讃美歌21の386番の歌詞のとおりかもしれません。「良いものみな 神から来る」のです。ですから、わたしたちもこのことを素直に、ひたすらに信じて「その深い愛をほめたたえよ」と歌ってゆけばいいのです(讃美歌21‐386番)。わたしたちも、このことを覚えて、神さまに感謝しつつ、み名をたたえつつ歩んでまいりましょう。

○ 祈祷

○ 讃美歌 21-390(主は教会の基となり)

○ 献金

○ 献金感謝 讃美歌21-65-1(今そなえる)

○ 頌栄 讃美歌21-27(父・子・聖霊の)

○ 祝祷

○ 後奏

○ 報告

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http://www.uccj-kc.jp/2019/09/29/093335/feed/ 0
2019年9月8日主日礼拝  http://www.uccj-kc.jp/2019/09/17/101538/ http://www.uccj-kc.jp/2019/09/17/101538/#respond Tue, 17 Sep 2019 01:15:38 +0000 http://www.uccj-kc.jp/?p=2479  聖霊降臨節第14主日礼拝順序

○ 前奏

○ 招詞

○ 讃美歌 21-60(どんなにちいさなことりでも)

○ 日本基督教団信仰告白

○ 主の祈り

○ 聖書朗読 コリントの信徒への手紙一 2:10~16   P301

わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。

人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。

わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。

そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。

自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。

霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。

「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。

 

○ 祈祷

○ 讃美歌  21-531(主イェスこそわが望み)

○ 説教

メッセージ(牧師説教要旨)

2019年9月8日郡山教会主日礼拝説教

『キリストの思い』 小峰 擁

人間の思い、自分の心の中を歌った八木重吉の詩はわたしたちにとっては深い謎のようなところがあるのではないでしょうか。しかし、八木重吉の詩はとても心ひかれます。

「  咲く心 八木重吉

うれしきは

こころ咲きいずる日なり

秋 山にむかいて うれいあれば

わがこころ 花と咲くなり

 

うつくしいもの  八木重吉

わたしみずからのなかでもいい

わたしの外の せかいでもいい

どこかに「ほんとうに 美しいもの」は ないのか

それが 敵であっても かまわない

及びがたくても よい

ただ 在るということが 分りさえすれば

ああ ひさしくも これを追うに つかれたこころ 」

(佐古純一郎編『八木重吉信仰詩集 貧しき信徒』より)

やはり謎は謎なのかもしれません。しかしこのように美しい詩(うた)があること、何かほんとうに心の底から美しいものを問うような心の詩(うた)があるということは、やはりわたしたちにとって心の慰めであり、喜びなのです。

きょうのコリントの信徒への手紙一2:10‐16、特に16節に注目したいと思います。「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。しかも、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」とあります。

「キリストの思い」というところは「キリストの心」とも訳せます(文語訳、新改訳)。主イエス・キリストを信ずる人はキリストの心とひとつとなり、キリストの思いに生かされます。主にあって生きる、主に結ばれて生きる、ということがここに示されます。

15,16節もそうです。つまり、主イエスさまを信ずる人は信仰的良心をもって、キリストの思い、キリストの心とひとつとなって、いっしょうけんめい考え、祈り、何よりもキリストのもとに帰り、キリストを求めてゆくというのです。

キリストがわたしたちを愛してくださいます。わたしたちはキリストを信ずる者です。ですから、いつも、何度でもキリストのもとへと帰って、キリストを求めてゆくのです。

わたしたちはキリストに愛されています。キリストを信ずる者の心をもって、きのうも、きょうも、あしたも、ともに感謝の歌を歌いつつ、祈りつつ、歩んでまいりましょう。

○ 祈祷

○ 讃美歌 21-471(勝利をのぞみ)

○ 献金

○ 献金感謝 讃美歌21-65-1(今そなえる)

○ 頌栄 讃美歌21-27(父・子・聖霊の)

○ 祝祷

○ 後奏

○ 報告

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http://www.uccj-kc.jp/2019/09/17/101538/feed/ 0
2019年9月1日主日礼拝  http://www.uccj-kc.jp/2019/09/12/142931/ http://www.uccj-kc.jp/2019/09/12/142931/#respond Thu, 12 Sep 2019 05:29:31 +0000 http://www.uccj-kc.jp/?p=2470  聖霊降臨節第13主日礼拝順序

○ 前奏

○ 招詞

○ 讃美歌 21-7(ほめたたえよ、力強き主を)

○ 日本基督教団信仰告白

○ 主の祈り

○ 聖書朗読 コリントの信徒への手紙一 2:6~9   p.301

しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。

わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。
この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
しかし、このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。

○ 祈祷

○ 讃美歌  21-204(よろこびの日よ)

○ 説教

メッセージ(牧師説教要旨)

2019年9月1日郡山教会主日礼拝説教

『神の知恵』<コリントの信徒への手紙一 2:6‐9> 小峰 擁

神さまの恵みのもと、暑い夏も終わり、振起(しんき)の秋になろうとしています。

讃美歌21になりましてからもう22年が経ちます(1997年2月20日初版)。

いままでの讃美歌の中だけではなく、讃美歌21の中にもやはり親しみやすい讃美歌がたくさんちりばめられています。

讃美歌21の360番の「人の目には」もそのひとつでしょう。

「人の目には 隠された、ただ一人の 生ける神。 全能なる 主の御(み)名を、

たたえうたえ、声合わせ。……」(讃美歌21-360)。

あまり押し付けがましくありません。神さまのみわざが淡々と歌われています。

わたしたちもここに歌われているような内容についてしだいに深く考えさせられるのではないでしょうか。

きょうのコリントの信徒への手紙一の1章、2章の中には、わたしたちが自分の知恵に対する誇りを除くべきことが教えられています。

イエスさまを信ずる人は、自分の知恵を誇って、他の人と競ったり、争ったりしないで、ただキリストのみをわたしたちの誇りとすべきことがここで教えられています。

そうです。教会はキリストの体なのです。その枝であるわたしたちが自分勝手に分かれ争うのではなく、イエスさまを信ずる信仰によって一致することが勧められています。 キリストの教会の中心は主イエス・キリストです。キリストの十字架と復活の福音です。

キリストの十字架と復活の福音こそ、神さまの愛と知恵と力とがあらわされています。

人の目には見えないけれども、神さまの愛と知恵と力が明らかにされます。

きょうのコリントの信徒への手紙一2章は、神さまの知恵についてこう語りかけます。

「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。」(Ⅰコリント2:7)。

「隠されていた、神秘としての神の知恵」をわたしたちも語るのです。ここには特に「神秘」あるいは「奥義」という語(ミュステーリオン)が使われています(1コリント4:1、15:51、ローマ16:25)。

玉川直重先生の辞書にはこのように記されていました。

「キリストを通して人類を救う計画、昔は隠されていたが、今は啓示により人類に明らかにされている救いの奥義(である)」と(玉川直重著『新約聖書ギリシア語辞典』)。

わたしたちも神さまの恵みによって、神さまの愛によって、神さまの知恵、神秘に与(あず)からせていただいています。このことを思うと、ほんとうに感謝にたえません。

神さまの愛、キリストの十字架の愛に感謝しつつ、わたしたちに与えられた恵みを数えつつ、讃美しつつ、歩んでまいりましょう。

○ 祈祷

○ 讃美歌 21-394(信仰うけつぎ)

○ 聖餐式

○ 讃美歌 21-78(わが主よ、ここに)

○ 献金

○ 献金感謝 讃美歌21-65-1(今そなえる)

○ 頌栄 讃美歌21-27(父・子・聖霊の)

○ 祝祷

○ 後奏

○ 報告

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http://www.uccj-kc.jp/2019/09/12/142931/feed/ 0
2019年8月25日主日礼拝  http://www.uccj-kc.jp/2019/09/12/142530/ http://www.uccj-kc.jp/2019/09/12/142530/#respond Thu, 12 Sep 2019 05:25:30 +0000 http://www.uccj-kc.jp/?p=2464  聖霊降臨節第12主日礼拝順序

○ 前奏

○ 招詞

○ 讃美歌 21-17(聖なる主の美しさと)

○ 日本基督教団信仰告白

○ 主の祈り

○ 聖書朗読 コリントの信徒への手紙一 2:1~5  P300

兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。

なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。

そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。

わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。

それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

○ 祈祷

○ 讃美歌  21-474(わが身の望みは)

○ 説教

メッセージ(牧師説教要旨)

2019年8月25日郡山教会主日礼拝説教

『十字架のキリスト』 小峰 擁

ずっと昔のことですが、ある教会の伝道集会で奇術師、マジシャンの柳沢よしたねさんのあかしを聴(き)いたことがあります。よしたねさんの「すなどりのうた」シリーズの一冊には『目には涙を』というとても印象的なあかしの本もあります。この本の表紙にはイエスさまのお顔の小さいさし絵でしょうか、涙を浮かべた男の人の顔が描かれていました。「すなどり」とは、人を漁(すなど)る人、イエスさまのお弟子のように主イエスさまに従って福音を伝道する人のことを意味しているのでしょう。

このときの柳沢よしたねさんは、もうすでにかなりご年配の方でした。牧師さんのような黒い服を着ておられましたが、この方のお話を聴いていていつのまにかすっかりと惹(ひ)きつけられてしまいました。お話も奇術、マジックのようでした。

どうもイエスさまをよしたねさんが信じはじめた頃のお話のようです。郷里の長野県の街の旧安田銀行の前を行ったり来たりしているよしたねさんの姿、なぜかとても迷われていたようです。よしたねさん、あっちに行ったり、こっちに来たり、ジェスチャーもまじえてのあかしでした。なんだかそれを聴いているわたしたちも、まるで自分たちのことのようにも思えてきてしまいますから不思議です。よしたねさんのお話の筋は最後まではっきりとはよくわからなかったのですが、そのときのよしたねさんの心、気持ちだけはなぜか聴くことら側にもよく伝わってきたのでした。

聖書のあかしは旧約聖書の創世記32章のヤボクの渡しのところでした。天の使いと組打ちするヤコブのところです。人生の最大の危機にさらされたヤコブは天使との角力のように、がっぷり四つになって夜が明けそうになるまで組打ちをします。けれども、神さまの祝福をいただくまではヤコブは決してその手を放そうとはいたしません。しまいには天使にさばおりのようにされて、もものつがいをはずされてしまいます。このときヤコブは「神と争う」という意味の「イスラエル」という別名をもらうことになります。さすらうヤコブの魂は祈りにおいて神さまと格闘しています。神さまとの出会いの瞬間です。わたしたちの人生にもきっとこのような神さまの時、瞬間があるのだと思います。きっと、柳沢よしたねさんも、そのようなことが言いたかったのだと思います。

きょうのコリントの信徒への手紙一2章1-5節の部分の手紙を書いている使徒パウロも、おそらくこのような神さまとの出会いの瞬間のことを語っているのだと思います。人生のピンチのような瞬間かもしれません。が、実は神さまとの出会いの瞬間かもしれません。実はピンチがチャンスなのです。人生においても特に神さまとの出会いはこのような神さまの備えられた時なのです。パウロも先のアテネ伝道での失敗をもうコリントでは繰り返すまいとの覚悟のようなものがここにあるようです(使徒言行録17章参照)。パウロはもう人間の知恵を頼りとせず神さまの知恵のみに依り頼もう十字架と復活のキリストのみを伝道しようとの決意がここにあります。わたしたちも教えられます。

○ 祈祷

○ 讃美歌 21-449(千歳の岩よ)

○ 献金

○ 献金感謝 讃美歌21-65-1(今そなえる)

○ 頌栄 讃美歌21-27(父・子・聖霊の)

○ 祝祷

○ 後奏

○ 報告

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2019年8月18日主日礼拝  http://www.uccj-kc.jp/2019/08/25/115828/ http://www.uccj-kc.jp/2019/08/25/115828/#respond Sun, 25 Aug 2019 02:58:28 +0000 http://www.uccj-kc.jp/?p=2459  聖霊降臨節第11主日礼拝順序

○ 前奏

○ 招詞

○ 讃美歌 21-4(世にあるかぎりの)

○ 日本基督教団信仰告白

○ 主の祈り

○ 聖書朗読 出エジプト記 22:20~26 旧約 P131

寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。

寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。

もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。

そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。

もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。

もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。

なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。

○ 祈祷

○ 讃美歌  21-563(ここに私はいます)

○ 説教

メッセージ(牧師説教要旨)

2019年8月18日郡山教会主日礼拝説教

『隣人との関係』 佐藤 健

今日与えられた出エジプト記は創世記に続いて記されており、しかも歴史書そのものではありませんが、ストーリに沿って書かれていて読みやすいところなのでよく読まれている個所ではないでしょうか。しかし、22章20節は寄留者、21~23節は寡婦や孤児、24~26節は利子を取ることの禁止、質草等について書かれています。このような人との関係は、これをそのまま今に当てはまる方は少ないと思います。それは、書かれている内容が今から 3200年前の、しかも当時の特殊な環境も状況も、書いた時代も 2400年前のことですから、このまま知識として受け止めずに、今生かされている私達の置かれた状況で学ぶのが良いと思います。

 

さて、隣人との関係は人皆異なっているので、その判断の仕方で考えてみましょう。大きく分けて、3つあります。①何でも自分で判断する。②人の意見を聞いてから判断する。③信仰している神の判断を仰いで判断する。いろいろなケースが考えられますので、恐縮ですが、私の召命について一つの例として話したいと思います。

 

ある朝、朝祈している時、示された聖書は、それは、「そして別の人に『わたしに従いなさい』と言われた。」(ルカ9:59)それまで信仰生活が長い上、いろいろな牧師の召命を見聞きしている②。私自身これから学ぶのには57歳と晩年との思いから神様にたいし遠慮させて下さい①と何度も応答しましたが、その答えは、「イヤ、お前だ」です。これには参りました。結局、お受けしました時、これまで大変だと思ったことは、恵みでした。正直、「3日やったら止められない」という信仰的受け止めが出来ました。本当に感謝でした。

 

「食わず嫌い」という言葉がありますが、判断によりこんなにも変わるんだと知りました。いつも教会生活は、生き方教室と言っていますが、その通り信仰生活(生き方)を見出すのが教会生活です。人皆違うかも知れませんが、聖書に生きる生活が出来たら意味ある人生が送れるでしょう。皆様の承順を祈ります。

○ 祈祷

○ 讃美歌 21-519(イザヤを招く神の声は)

○ 献金

○ 献金感謝 讃美歌21-65-1(今そなえる)

○ 頌栄 讃美歌21-27(父・子・聖霊の)

○ 祝祷

○ 後奏

○ 報告

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2019年8月11日主日礼拝  http://www.uccj-kc.jp/2019/08/20/122328/ http://www.uccj-kc.jp/2019/08/20/122328/#respond Tue, 20 Aug 2019 03:23:28 +0000 http://www.uccj-kc.jp/?p=2454  聖霊降臨節第10主日礼拝順序

○ 前奏

○ 招詞

○ 讃美歌 21-11(感謝にみちて)

○ 日本基督教団信仰告白

○ 主の祈り

○ 聖書朗読 コリントの信徒への手紙一 1:26~31 P300

兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。

ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。

また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。

それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。

神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。

「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

 

○ 祈祷

○ 讃美歌  21-419(さあ、共に生きよう)

○ 説教

メッセージ(牧師説教要旨)

2019年8月11日郡山教会主日礼拝説教

『神の選び』 小峰 擁

わたしたちは聖書の中に肯定的なものと、時にはその反対に否定的なものがあるように思えるときがあります。それは自己の内面的な印象を重視するかなり主観的な見方かもしれません。けれども、日々の生活においてどこかそのような気持ちで聖書に接していることが多いのではないでしょうか。それが良いとか、悪いとかということはともかくとして、案外こうした気持ちがわたしたちの心の中にあるのも確かかもしれません。

先日思いだしたように旧約聖書のホセア書3章を読んでいました。1、2章もそうなのですが、ホセア書3章を読んでいて、とても感動いたしました。

それは新共同訳ホセア書3章の小見出しにありますように、「神の愛による回復」ということにとても惹かれたのだと思います。わたしたちの心の中にはいつも「愛による回復」ということへのあこがれというか、おごそかなる渇きがあるのだと思うのです。

ホセア書3章の冒頭には、神さまの愛を表現する「愛する」という語が4回も出てまいります。神さまの愛をこのように「愛する」と表現しております。ここには、はらわたがよじれるような、断腸の思いとして、神さまの愛が「愛する」という語をもって表現されております。神さまはその激しい思い、熱い愛をもってわたしたちのことを愛しておられます。イエスさまの十字架の愛こそまさにそうです。ホセア書3章では、神さまの愛が預言者ホセアと彼の妻との愛の回復の物語として象徴的な意味を込めて描かれております。「行け、…愛せよ。」(ホセア3:1)、「…わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」(ホセア3:3)と。

それに続く5節では、「その後(のち)、イスラエルの人々は帰って来て、…。」(ホセア3:5)と、神さまの愛によって罪を悔い改めて神さまのみもとへと立ち帰るイスラエルの民の姿が預言されております。(わたしたちは、神さまの愛について語っているみことば、ヨハネ3章16節、ヨハネの手紙一3章16節、4章10節などを思い起します。)

さて、新約聖書のコリントの信徒への手紙一1章26~31節ですが、このような旧約聖書のホセア書3章のみことばなどからもわかりますように、ここで語られる神さまの選びということも、実は深い深い神さまの愛に根ざすということです。神さまの選びの背後には神さまの激しい愛、熱い愛が隠されているのです(申命記7:6~8なども参照)。

わたしたちひとりひとりも、このわたしも、神さまからかけがいのない存在として愛されています。大切に思われています。熱く、激しく愛されています。そして、世の中からたといどんなに見栄えしないように思われたとしても、神さまの愛のゆえに、神さまから尊ばれ、選ばれています。このことを聖書は語っています。これが聖書の心です。

コリントの信徒への手紙一1章26~31節はわたしたちも神さまに愛され、選ばれていると語りかけられています。このみことばの奥にはわたしたちを優しく包む神さまの愛が、主イエス・キリストの十字架と復活の愛が隠されています。誠に感謝であります。

 

○ 祈祷

○ 讃美歌 21-579(主を仰ぎみれば)

○ 献金

○ 献金感謝 讃美歌21-65-1(今そなえる)

○ 頌栄 讃美歌21-27(父・子・聖霊の)

○ 祝祷

○ 後奏

○ 報告

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http://www.uccj-kc.jp/2019/08/20/122328/feed/ 0
2019年8月4日主日礼拝  http://www.uccj-kc.jp/2019/08/11/094841/ http://www.uccj-kc.jp/2019/08/11/094841/#respond Sun, 11 Aug 2019 00:48:41 +0000 http://www.uccj-kc.jp/?p=2445  聖霊降臨節第9主日礼拝順序

○ 前奏

○ 招詞

○ 讃美歌 21-13(みつかいとともに)

○ 日本基督教団信仰告白

○ 主の祈り

○ 聖書朗読 コリントの信徒への手紙一 1:18~25   p.300

 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。

それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」

知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。

世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

○ 祈祷

○ 讃美歌  21-391(キリストよ、救いの神)

○ 説教

メッセージ(牧師説教要旨)

2019年8月4日郡山教会主日礼拝説教

『十字架の言葉』<コリントの信徒への手紙一 1:18‐25> 小峰 擁

きょうは平和聖日です。

「こころを一つに」という讃美歌を歌っていて気づかされたことがあります。

「こころを一つに 平和を求め、 主を愛する愛 明るく燃やそう。 主はぶどうの幹、われらその枝。 主はわれらのもの、われら主のもの。……」(讃美歌21‐393)。

それは、わたしたちもここに歌われますように「こころを一つに 平和を求め、 主を愛する愛 明るく燃やそう。」とすることです。

人に見せるのではなくて、神さまに向かって、主イエスさまに向かってならば、わたしたちにもできるかもしれません。

もしかすると、わたしたちにもできることが歌われているのではないでしょうか。

十字架の主イエスさまはわたしたちを愛してくださいました。

神さまによって、わたしたちの生きる方向を180度転換させていただいたのです。

わたしたちも、神さまを愛し、人を愛して生きてゆく道を歩み始めるのです。

それは、難しい道なのかもしれません。

しかし、神さまに愛されたわたしたちは少しずつこの道を歩みなおし、歩み始めるのです。そこにはおそらく多くの失敗や挫折もあるでしょう。そのたびごとに、神さまから、主イエスさまから、愛と力をいただきながらなんどでも歩みなおし、歩み続けてゆくのです。

わたしたちも聖霊によって心をきよめていただきながら神さまの愛と平和の道を歩ませていただきたいと思います。

「コリントの信徒への手紙一」の中で神さまは使徒パウロを通してわたしたちにこのような聖霊によって生きなおし、生き始めることを教えておられるのではないでしょうか。

パウロは「わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」(Ⅰコリント1:23)と告白します。言い切っています。

さらに、十字架につけられたキリストは「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、……召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(同上1:23、24)というのです。

パウロはわたしたちの心の真ん中に主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を投げかけています。

罪に悩んでいたわたしたちです。神さまは罪に悩むわたしたちをキリストの十字架の死によってあがなわれ、救われたのです。わたしたちの罪はゆるされたのです。

人の罪を負う主の十字架こそ、主の復活こそ、まことの愛と平和と希望の源です。

平和聖日のこの日、わたしたちは愛と平和と希望の主イエス・キリストの十字架と復活の出来事をひたすら見つめましょう。

○ 祈祷

○ 讃美歌 21-411(うたがい迷いの)

○ 聖餐式

○ 讃美歌 21-78(わが主よ、ここに)

○ 献金

○ 献金感謝 讃美歌21-65-1(今そなえる)

○ 頌栄 讃美歌21-27(父・子・聖霊の)

○ 祝祷

○ 後奏

○ 報告

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http://www.uccj-kc.jp/2019/08/11/094841/feed/ 0
2019年7月28日主日礼拝  http://www.uccj-kc.jp/2019/08/04/094646/ http://www.uccj-kc.jp/2019/08/04/094646/#respond Sun, 04 Aug 2019 00:46:46 +0000 http://www.uccj-kc.jp/?p=2441  聖霊降臨節第8主日礼拝順序

○ 前奏

○ 招詞

○ 讃美歌 21-10(来る朝ごとに)

○ 日本基督教団信仰告白

○ 主の祈り

○ 聖書朗読 コリントの信徒への手紙一 1:10~17  p.299-P300

さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。

わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。

あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。

キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。

クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。

だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。

もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。

なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。

○ 祈祷

○ 讃美歌  21-393(こころを一つに)

○ 説教

メッセージ(牧師説教要旨)

2019年7月28日郡山教会主日礼拝説教

『心を一つに』 小峰 擁

ボーデルシュビンクという人物とベーテルという街の名前はときどきワルケンホースト先生より聞いていました。

(ドイツの戦争中、障害者の施設や病院のあるベーテルの責任者の息子であるボーデルシュビンクは、医師、看護師、牧師とも全員一致して中に入っている人たちに手を出す前に自分たちを処分してくれと、自分たちの命を投げ出して身をはって障害者の人たちを安楽死させよとの命令を拒否したのだそうです。さすがのヒットラーも手を出せなかったのだそうです(「対談―熊澤義宣氏と語る 共存に向かって―障害者と宣教」、島崎光正著『神は見て良しとされた』より)。

この話を聞いて、何かとても聖書的な愛だなと思わされました。もっとつきつめれば、イエスさまの歩まれた十字架の道のようだなと思わされました。イエスさまの十字架こそ、命をさしだす愛であったのです。そしてイエスさまの復活によって、聖霊によってイエスさまの弟子たちは主の十字架と復活の証人に召され、変えられていったのでした。

もちろん使徒パウロも回心によってイエスさまを迫害する人から宣べ伝える人へと生きる方向を180度変えられたのでした。主の十字架と復活の証人に召されたのです。

きょうのコリントの信徒への手紙一1章の使徒パウロには、こうした主イエスさまの十字架の愛にならおうとする心、自分の命をも喜んでさすだす愛があります。

パウロの心の中には主イエスさまの十字架と復活の愛を何とかコリントの教会の人たちに伝えたいという強い思いがあります。

しかし、コリントの教会の人たちにはさまざまな問題がありました。たとえば、分派のようにそれぞれに分れ、争っていたものと思われます。パウロはそこに自分を誇ろうとするものを見たのだと思います。

ですから、パウロはこの手紙で最初の挨拶と感謝を述べたあと、すぐにコリントの教会の問題の所在、核心に迫るのです。

これらの背後には主の愛のゆえに自分の命をさえ喜んでさしだす熱い思いがあります。この愛の迫りをわたしたちは決して忘れてはならないでしょう。

パウロには神さまから愛された愛、主イエスさまから愛された愛の記憶があります。ここにははっきりとした主への愛、祈りがあります。愛がなければ祈れません。愛がなければ人を愛せません。愛がなければ福音を宣べ伝えられません。パウロは主に愛されたように、コリントの教会の信徒たちを神さまのみ前にあって思いっきり愛しています。

このような神さまの愛、イエスさまの愛を、わたしたちも忘れることができません。

わたしたちも主イエスさまの愛にならおうとするキリストを信ずる者、キリスト者です。わたしたちはほんとうに小さな者ですが、このこころざし、愛の心、信仰の心を大切に歩んでまいりましょう。

○ 祈祷

○ 讃美歌 21-531(主イェスこそわが望み)

○ 献金

○ 献金感謝 讃美歌21-65-1(今そなえる)

○ 頌栄 讃美歌21-27(父・子・聖霊の)

○ 祝祷

○ 後奏

○ 報告

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