11月30日 待降節第1主日礼拝
聖 書 ヨハネの手紙一 2: 1 〜 6
説 教 「キリストの愛」 小峰 擁 牧師
讃 美 歌 235 241 391
玉川直重(たまがわ・なおしげ)先生という方の『学びつつ祈りつつ』の中の「クリスマスの前夜」という文章を読んでみました。玉川直重先生は大学などで長年ギリシア語やラテン語など古典語の先生であった方です。玉川直重先生のライフワークであった『新約聖書ギリシア語辞典』出版の機会に、併せてこの『学びつつ祈りつつ』も出版されました。
「クリスマスの前夜」は「私は子供のころ、父母に連れられて、「阿波の鳴門」と題する芝居を見にいったことがある。……」と始まります。この芝居に親子が対面していながら、親であり子であることを明かすことができない悲しく、悲惨な場面があるそうです。
「ところが、この悲惨な場面こそクリスマスの前夜の場面でもある」というのです。
「人間には望みは絶えた。しかし神は愛であって人間との親子関係を取りもどさないではおれない。これがために神はあらゆる方法を試みられたが、失敗され、遂に御独り子自ら世に降り、肉眼でも見えるように、肉の耳でも聞くことができるように、手で触れることができるように、「言は肉体となりて我らの中に宿り給ヘリ」(ヨハネ1-14)。この化身がクリスマスである。……ここに親子再会の喜びがある。……しかし、ここに至るまでには神の側では非常な、悲惨な犠牲があったことを忘れてはならない。」(玉川直重著『学びつつ祈りつつ』1979年、キリスト新聞社刊)
特に、クリスマスの前夜に「しかし、ここに至るまでには神の側では非常な、悲惨な犠牲があったことを忘れてはならない」というところが忘れられません。
第一ヨハネ書の「神は愛です」(ヨハネの手紙一4:16)ということも、神さまの愛の背後に神さまの側では非常な、悲惨な犠牲があったことをわたしたちは忘れてはなりません。
神さまの愛の背後に神さまの側では非常な、悲惨な犠牲があったのです。わたしたちはこのことをけっして忘れてはならないでありましょう。きょうのみことばもそうです。
「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父(おんちち)のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」(ヨハネの手紙一2:1)
「弁護者」、「助け主(ぬし)」である罪のない神さまのみ子イエスさま。イエス・キリストが十字架の上で血汐を流されたことを。わたしたちをかばい、救ってくださったことを、わたしたちは忘れることができません。わたしたちの罪のために、わたしの罪のために、神さまの独り子イエスさまが十字架の上で血汐を流されました。このわたしたちのことを、このわたしのことを引き受けあがないとってくださったのです。救ってくださったのです。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神が,わたしたちを愛して、わたしたちの罪を償(つぐな)ういけにえとして、御子(みこ)をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙一4:10)
イエス・キリストはいのちであり、人にいのちを与えます(ヨハネの手紙一1:2,4:9,5:11)。
神さまの深い愛です。ここにクリスマスの喜びのおとずれのとうとい意義があります。
日本基督教団郡山教会
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