3月30日  受難節第4主日礼拝
聖  書  ヨハネによる福音書 13: 33 〜 38
説  教  「主よ、いずこに」 小峰 擁 牧師
讃 美 歌   51 300 463  
 
星野富弘さんが天に召されてから一年近くの月日が経とうとしています。星野富弘さんの絵と詩を神さまからいただいた恵みとして感謝するとともに、神さまの慰めと平安をお祈りしたいと思います。星野富弘さんの「日日草」という絵と短い詩が忘れられません。
「 今日も一つ 悲しいことがあった 今日もまた一つ うれしいことがあった   
  笑ったり泣いたり 望んだり あきらめたり にくんだり 愛したり
  そして これらの一つ一つを 柔らかく包んでくれた 数え切れないほど沢山の 
平凡なことがあった 」 (星野富弘著『いのちより大切なもの』より)
さて、主(しゅ)イエスさまにシモン・ペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」とお尋ねしたように、わたしたちも心の中で愛する人のことを想い起こしとても会いたくて
「どこに行ったの?」と呼びかけ、問うことがあるのではないでしょうか。
聖書の中のペトロと主イエスさまのさまざまなやりとりを読む際に、なぜかわたしは詩篇139篇のみことばを思いだします。(文語訳でここのところをご紹介したいと思います。)
「主よなんぢ(じ)は我(われ)をさぐり我をしりたまへ(え)り なんぢはわが坐(すわ)るをも立つをもしり、又とほ(お)くよりわが念(おもい)をわきまへ給ふ(う) なんぢはわが歩むをもわが臥(ふ)すをも探り出(いだ)し、わがもろもろの途(みち)をことごとく知り給へり 視(み)よ主よ、なんぢことごとく知り給ふ ……われいづ(ず)こにゆきてなんぢの御霊(みたま)をはなれんや、われいずこに往(ゆ)きてなんぢの御前(みまえ)をのがれんや われ天にのぼるとも汝かしこに在(いま)し、われわが榻(とこ)を陰府(よみ)にま(も)うくるとも 視よなんぢ彼處(かしこ)にいます 我あけぼのの翼(つばさ)をかりて海のはてに住むとも かしこにて尚なんぢの御手(みて)われをみちびき、汝のみぎの御手われをたもち給は(わ)ん」(文語訳、詩編139:1-3,7-10) 詩篇139篇の詩人はわたしたちのふつうの視点とは違ったまなざしをもって歌っています。
主よなんぢ(じ)は我(われ)をさぐり我をしりたまへ(え)り」。この詩人は、自分自身をどこまでも追及するわたしたちのようなまなざしについてではなく、わたしたちをさぐりまた知りたもう神さまのまなざしについて歌います。そしてこのようなまなざしによって自分がみつめられていることを心から感謝し慰められています。わたしたちはきょうのみことばのことを思いますとき、ペトロのことがいつの間にか、実はわたしたちの魂の姿とまったく同じように思えてきてしまいますから不思議です。きょうのみことばはヨハネ福音書13章から17章までのイエスさまの告別説教の箇所です。その序に続くところです。
ペトロはいつも主イエスさまのことを思いだすとき、この詩篇139篇の詩人と同じような心になっていたでありましょう。そして主イエスさまのことが心のなかにあざやかによみがえり、想い起されたのではないでしょうか。ほかの弟子たちにとっても同じでありましょう(おそらく、イスカリオテのユダにおいても同じであったでありましょう)。主イエスさまは愛なるまなざしをもって、わたしたちひとりひとりのことをみつめてくださいます。
日本基督教団郡山教会
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