4月 6日  受難節第5主日礼拝
聖  書  マタイによる福音書 26: 26 〜 30
説  教  「取って食べなさい」 小峰 擁 牧師
讃 美 歌  293 299 303  78
 
きょうのマタイによる福音書26章の中には、ベタニアで香油を注がれたあの美しい出来事が記憶されていました。
一人の女性が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持ってイエスさまに近寄り、その頭に香油を注ぎかけたのでした。イエスさまはこれをたいへん喜んでお受けになりました。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣(の)べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」とおっしゃたのです(マタイ26:12,13)。このように主のご受難を前に、美しい出来事も記されています。
そして、主(しゅ)イエスさまのご受難、十字架への道を前にして、イエスさまは弟子たちと最後の晩餐として過ぎ越しの食事をされたことが記されます。
その直前にはイエスさまの弟子のイスカリオテのユダの裏切りもあったのでした。このように十字架の出来事の中には親しい弟子が主を否(いな)む姿や裏切りもあったのです。
けれども、主イエスさまは、弟子をはじめとするすべての人の罪をゆるし、その罪からの救いのために十字架に架かられたのです。すべての人の弱さや罪の重荷を担われ、その罪をゆるし、あがなってくださったのです。
イエスさまはこの最後の晩餐のとき、主の晩餐を制定されました。主イエス・キリストの教会では、主の十字架のあがないの死と復活の記念として聖餐式が執り行われます。
「血を流すことなしには罪の赦(ゆる)しはありえない」(ヘブライ9:22)と聖書にありますように、わたしたちの罪は主イエス・キリストの十字架の血汐(ちしお)をもってあがなわれ、ゆるされるのです。主が十字架上で流された血汐こそ、すべての人の罪をあがない、ゆるすことができるのでした。
主イエスさまのからだであるパンを食べ、主キリストの血汐であるぶどう酒を飲むことによって、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれます。
わたしたちは主がさしだされるものをただただ受けるばかりです。
主イエス・キリストはこの聖餐に連なる人たちに、天のみ国の食卓を約束してくださっています。主イエス・キリストはわたしたちを天のみ国の恵みの食卓へと招いてくださっています。そこでは一切が備えられています。愛なる主イエスさまは招いてくださいます。
「わたしはアルファであり、オメガである。」「最初の者にして、最後の者。」(ヨハネの黙示録1:8,13,22:13)
「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」(同22:17)
主イエス・キリストはわたしたちのために貧しくなられました。それにもかかわらず、十字架と復活の主はわたしたちのために豊かな食卓を用意してくださいます。
主イエスさまは「取って食べなさい。これはわたしの体である。」(マタイ26:26)とわたしたちひとりひとりのことをこの食卓へと招いてくださいます。まことに感謝であります。
日本基督教団郡山教会
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