5月 7日  復活節第5主日礼拝
聖 書  マタイによる福音書21:23-27
説 教  「天よりの主イエス・キリスト」 小峰 擁 牧師
讃美歌   60 210 419
 
説教要旨
新緑の尾瀬の湿原や山々を挟んだ向こう側の地の群馬にも、福島・会津の地にも、むかし隠れキリシタンの人々が静かに暮しておられたそうです。会津若松郊外の西若松駅ほど近くを流れる湯川にかかる涙橋(なみだばし)の袂(たもと)にキリシタン塚があります。キリシタン禁教時代、六十人余の殉教者が葬られたのだそうです。山深い南会津の地にも隠れキリシタンの里があり(「舘岩」)、いまもその末裔の方々がここに暮らしておられるとのことです。時空を遥かに超えてですが、今を生きるわたしたちたちにもけっして無縁ではないように思えます。わたしたちも同じくイエスさまを信じる群れである教会に連なるクリスチャン、求道者です。福島・会津の地にあってキリシタンの人々がイエスさまを信じていったい何を考え、何を感じて生きてゆかれたのでしょうか。迫害の時代のさ中にあってそれでも神さまを、イエスさまを信じどのようにこの世を生き抜かれたのでしょうか。
さて、きょうのマタイによる福音書の記事は主イエスさまご自身がイスラエルの人々に向かって悔い改めを迫るところということができるでしょう。ここでは、どこに権威があるのかということが問題になってきます。権威というのは「力がある」ということです。
権威の根拠がどこにあるのか、つきつめて考えると人の権威なのか天の権威なのかということになってきます。イエスさまとの問答によって、結局、祭司長たちや民の長老たちは言葉を失い、沈黙せざるをえなくなります。もし、彼らが洗礼者(バプテスマ)のヨハネの権威は天からだと言えば、ではどうして、ヨハネを信じなかったのか、どうして悔い改めなかったのかと、問われてしまうことでしょう。もし、人からの権威だと言おうものならヨハネを信じている人たちから何をされるか分からないと思って怖かったのでしょう。つまり、祭司長たちや民の長老たちは真理への確信がなかったのです。その場しのぎに「分からない」と言って逃げ出してしまうことになったのです。イエスさまは、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」(マタイ21:27)とお答えになられたのです。ここでは、イエスさまは一見、彼らにはっきりとはご自身の権威についてほとんど何も語られていません。しかし、イエスさまはじつはいままでこのことを何度も語っておられたのです。洗礼者(バプテスマ)のヨハネが天からの権威を与えられているのと同じように、主イエスさまはそれ以上に天のみ父より根本的な天からの権威、天からの力を与えられています。神さまによってほんとうに権威ある力を与えられている者がここに立っています。その力とは神殿を清める力であり、ダビデの子としてほめたたえられる力の持ち主であったのです。その力によって人の罪を示し、愛し、罪のゆるしを与えます。さらに聖なる教会をつくりだす力なのです。
わたしたちも自分たちの罪を悔い改め天からの権威をもったこのお方、主イエス・キリストの十字架のみ前にひざまずかざるをえません。わたしたちの思い煩いのすべてをこのお方にお委ねしましょう。永遠の命の源であるこのお方に慰められ希望と力をいただきましょう。イエスさまと共に歩んでまいりましょう。主が御霊をもって導いてくださいます。

日本基督教団郡山教会
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