10月 9日  聖霊降臨節第19主日礼拝
聖 書  マタイによる福音書13:1-23
説 教  「種を蒔く人」 小峰 擁 牧師
讃美歌  202 412 451
説教要旨
先週木曜日にNHK連続テレビ小説「舞いあがれ」を観(み)られた方も多いかと思います。朝ドラの舞台の一つは、教会が多い九州五島列島です。こどもたちがカトリック聖歌の「マリアさまのこころ」を自然に、また楽しげに歌うシーンがありました。皆さんもきっと印象深かったのではないかと思います。わたしも、わぁこの聖歌とてもいいなと思いました。
「マリアさまのこころ それはあおぞら わたしたちをつつむ ひろいあおぞら……」
と歌ってゆきます(『典礼聖歌』407番)。
わたしたちにとっては、「マリアさまのこころ」は、もしかすると「イエスさまのこころ」と歌ってもいいのかなと思わされました。そんなことを思い、想像しながら観ていました。
これからも主(しゅ)イエスさまのおこころを想像し、主イエスさまのみことばにふれあいながらわたしたちは神さまのみことばである聖書を喜んで読み進んでまいりましょう。
きょうのみことば、マタイによる福音書13章1節以下は、イエスさまの「種を蒔く人」のたとえのところです。ここを8,9節の結びのところを中心に読んでゆきたいと思います。
「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい」。
やはり同じような23節のたとえの説明部分の結びを中心に読んでいってもいいでしょう。
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉(みことば)を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」。
わたしたちは種を蒔かれた場所と自分とを重ね合わせて、「良い土地」(8節)ならばいいのですが、自分は「道端」(4節)や「石だらけで土の少ない所」(5節)や「茨の間」(7節)ではあるまいかなどと考えがちです。神さまの福音の種が道端や石地や茨の中に蒔かれたことになってしまっているのではないかと心配になってきます。傷つき悩んでしまいます。
けれども、主イエスさまはここでいたずらにわたしたちを不安にさせ、心配させるようなことをほんとうにお語りになっているのでしょうか。けっしてそうではないと思います。
イエスさまがここでどうしても伝えたいことは、もっともっと愛に満ちたことでありましょう。このみことばは直接的にはイエスさまの弟子たちへの励ましかもしれません。ところが、実はわたしたちの心に向けて真実の愛を込めて語りかけてくださっているのです。主イエスさまはみことばをすなおに受け入れる人のさいわいをここで語っておられます。
イエスさまのみことばを喜んで受け入れる人の祝福、さいわいがいまわたしたちにも語りかけられています。
しかし同時に、そうではない耳を傾けることを拒み、心をかたくなにする人へのイエスさまのこころの悲しみも背後に隠されているといえましょう。預言者イザヤのことばをもって、神さまの悲しみが、み子イエスさまの悲しみが、ここに表現されています(14,15節)。
けれども、主イエスさまはきっとわたしたちの心を澄み切った青空にしてくださいます。
イエスさまの愛がわたしたちのこころをあおぞらにしてくださいます。感謝であります。

日本基督教団郡山教会
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