4月28日  復活節第5主日礼拝
聖  書  ヨハネによる福音書3:16-36
説  教  「証し」 小峰 擁 牧師
讃 美 歌   51 289 509
 
説教要旨
昔よく歌いました懐かしい『讃美歌』の歌声が聴(き)こえて来そうなときがあります。
「さまよう人々」もその一つです。曲もですが、特にその歌詞の1,4節が忘れられません。
「さまよう人々、 たちかえりて、 あめなる御国(みくに)の 父を見よや。 罪とがくやめる こころこそは、 父より与うる たまものなれ。 
さまよう人々、たちかえりて、 十字架の上なる イエスをみよや。 血しおの滴(したた)る み手をひろげ、 「生命(いのち)をうけよ」と まねきたもう。」(1954年版『讃美歌』239番1,4節)
まことに神さまのみ前に悔いくずおれ、主(しゅ)イエスさまのみ前に低くひざまずく聖書の信仰の心をここからも教えられます。この場所、この低さこそが、神さまによってわたしたちの立たされる信仰の場であり、信仰の出発点、信仰の原点ではないでしょうか。
きょうのヨハネによる福音書3章のみことば、特に22節以下のところは、洗礼者(バプテスマ)のヨハネの最後の証(あか)しの部分です。洗礼者ヨハネは、自分は救い主(すくいぬし)キリストでは決してないのだ、そうではなくその先駆けとして自分は罪の悔い改めの洗礼(バプテスマ)を施す者に過ぎないのだというようなことがここで強調されます。
31節以下は洗礼者ヨハネのこれらの言葉の続きではなく、この福音書記者ヨハネのキリスト証言、そしてキリスト讃美の言葉と解してよいでしょう。
イエス・キリストのみが天より来たれる者であり、それゆえ救いはただ主(しゅ)イエス・キリストにあるのだということがここで証しされています。
ところで、聖書の神さまはこのように人を、さまよう人を、悩む人をしめ出しません。そうではなく、むしろこれらの人々をいつくしみとあわれみをもって招いています。聖書の神さま、主イエス・キリストこそ、さまよう孤独な魂、悩む心のわたしたちひとりひとりのことをこよなく愛し、招いてくださるお方です。この神さまはこれまでの罪を悔い改めて、神さまへと立ち帰る人を退けず、愛情深くやさしく受けとめてくださるお方です。
ここでわたしたちは洗礼者ヨハネの最後の証言について振り返っておきたいと思います。
洗礼者ヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人ときよめのことで議論していました(25節)。洗礼者ヨハネはキリストでないので彼に罪のゆるしのまことのきよめを与える力はなかったのです。洗礼者ヨハネの使命はメシア(救い主、キリスト)の道備えの役割を受け持つことでした。その役目を果たしたなら、静かに去ってゆくのです。
洗礼者ヨハネはメシア(救い主、キリスト)の先駆者、道備えとして神さまから遣わされた人であったのです。その実感のこもった最後のことばは、わたしたちの心を深く打ちます。洗礼者ヨハネからキリスト者の信仰の心を教えられます。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(30節)。これは、洗礼者ヨハネに限りません。キリストを信ずる者、キリスト者の信仰の心を言いあらわす言葉にほかなりません。「神の栄光のために」。主なる神さまの栄光、キリストの栄光がほめたたえられるためになのです。まことに感謝であります。
日本基督教団郡山教会
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